日本英文学会第九〇回大会に寄せて 英文学会はおもしろい!  日本英文学会の魅力と新時代への可能性|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月23日 / 新聞掲載日:2018年5月18日(第3239号)

日本英文学会第九〇回大会に寄せて
英文学会はおもしろい! 
日本英文学会の魅力と新時代への可能性

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日本英文学会第九〇回全国大会が東京女子大学で開催される。日本英文学会が創立されたのは一九二九年、その前身の東京帝大英文学会の設立は一九一七年に遡るから、ほぼ一世紀にわたって、この分野の研究、教育、情報発信の中枢を担ってきたということになる。開催校の東京女子大学も今年はちょうど創立一〇〇周年。両者は、大正から昭和、平成にかけての日本の歩みを共有してきたと言えるだろう。
「文学をやって何の役に立つ?」という声を、特に最近の日本の経済界、教育界でよく耳にするが、この問いは、昔も今も、そして日本だけでなく世界各地にあっても、実はそれほど珍しいことではなかった。実用的成果や経済的効果を想定し、その想定内での目標を実現することを以てよしとする息苦しい社会的風潮や教育の中にあって、多様で、しばしば想定外のことを描き出す言葉の芸術は、時として人を苛立たせ、「文学など絵空事」という捨て台詞をしばしば言わしめてきた。

だが、文学はおもしろいのだから、仕方がない。教室で、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』とシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を読み比べたとしよう。たいていの場合、学生はオースティン派とブロンテ派に分かれて甲論乙駁、ヒロインの生き方に一つの理想的な解答などありはしないのに、そのありもしない答えをめぐって学生は熱中する。否、学生ばかりではない。人生の機微や処世の知恵を十分心得ているはずの年輩の読者であれ、教師であれ、あるいは英語圏であれ非英語圏であれ、議論は描写の細部にわたって倦むところを知らない。個別性と普遍性、想定内と想定外、あるいは一つの台詞に含意された多様な意味――さまざまな境界を横断するそういう想像力は、やがて創造力に転じ、人生の原動力となっていく。古今東西、そして今なお脈々と紡ぎ出されているそうした人間の言葉から、敢えて目を背けさせるような「無理」が現代社会において蔓延しているとすれば、その「無理」こそ、現代社会の深刻な限界の現れと言うべきものである。

もっとも、日本英文学会が一世紀の歩みの中で直面してきたのは、この「文学をやって何の役に立つ?」という問いだけではなかった。日本において、あえて「英」文学を、しかも楽しむのではなく「研究」するのはなぜか、という少なくとも二つの問いにも常に向き合い続けてきた。「英語で書かれた文学」だからという理由でことさら重視されたこともあれば、英米と戦闘状態に陥った一九四〇年代前半のように、「敵性語」の文学として極端に冷遇されたこともあった。ただ確実に言えることの一つは、いずれもペーパーバックで三〇〇頁を越える『高慢と偏見』や『ジェイン・エア』をめぐって、英語圏の読者とも実質的な文学談議ができるためには、然るべき、そしてそれこそ実用的な英語力が必要不可欠であり、英文学会はそのことを常に前提としてきた、ということである。「役に立たない」かも知れない英文学談議は、常に英語運用能力の最前線でもあったということを忘れてはならないだろう。文学を学問として「研究」することの意義についてはどうか?文学作品は、通常、作者の著しく個性的な想像力や表現力によって生み出され、その評価は、読者個々の判断に委ねられる。そこに研究者が介入する余地はあまりないかも知れない。あまりないかも知れないけれど、しかしここでも確実に言えることの一つは、名作を生み出すのは、作者であるのと同時に読者でもあるということ、その読者たちが有する潜在的な能力や想像力を引き出す何らかの手がかりを社会に提供する存在は、やはり古今東西、常に必要とされてきたということである。

今回の日本英文学会大会は平成時代最後の大会でもある。登壇する研究者は総勢一三〇名に及ぶ。そこでどんな手がかりが示されるのか――英文学会のおもしろさと新時代への可能性が、今、試されている。(はらだ・のりゆき=東京女子大学教授・英文学)
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