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2018年5月23日

心に残る英文学の世界(1)
翻訳家・研究者・編集者 推薦の一冊

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本橋 哲也

■アーシュラ・K・ル=グウィン『西のはての年代記 IギフトⅡヴォイスⅢパワー』(谷垣暁美訳、河出書房新社・二〇〇〇六~八年)
私たちは今年、石牟礼道子とル=グウィンという二人の稀有な作家を喪ったが、その作品群はこれからもあらゆるものの生と死を見守り続ける。ル=グウィンは『アースシー物語』『闇の左手』『所有せざる人々』といった作品が有名だが、ここでは比較的最近の『西のはての年代記』(二〇〇四~二〇〇七)を取り上げよう。つまらない作品のないル=グウィンのなかでも、この三部作はいったん読み始めると、最後まで頁を繰る手が止まらなくなる。破壊と修復を扱う『ギフト』、復讐と教育がせめぎあう『ヴォイス』、記憶と幻が交錯する『パワー』――それぞれが「力」とは何かという問いに、残酷に優しく、深く激しく、戦いと成長を繰り返しながら迫り、ル=グウィン特有の簡素で温かな微笑のような結末へと読者を導いていく。なにより大きな喜びをもたらすのは、主人公たちが巻を追うごとにまるで対位法のように主題を復唱し、『パワー』の最後でオレック、グライ、メマー、シタール、ガヴィアが一堂に会して、言語芸術による音楽アンサンブルを奏でることだ。そこに至った読者は、これこそが自然の恵みギフトであり、愛のヴォイスであり、詩のパワーであることを知り、魔法なき世界における生の軌跡/奇跡に慄く。
西崎 憲

■コリン・バレット『ヤングスキンズ』(田栗美奈子・下林悠治訳、作品社・二〇一七年)
作者のコリン・バレット(Colin Barrett)はカナダ生まれのアイルランド人である。生年は一九八二年、本短篇集Young Skinsは二〇一三年に「スティンギング・フライ・プレス」から刊行された。二〇〇五年創業の同プレスは新しいアイルランド文学の出版に意欲的で、ウェブサイトから窺われる熱気は眩しいほどである。

アイルランドの作家の短篇が、日本に紹介される割合は、アメリカのそれに比べれば著しく低いが、もちろん同国はスウィフト、ジョイス、ワイルド、トレヴァーなどを生んだ国であり、その文学的伝統は瞠目すべきものである。そしてこの短篇集の作者バレットは輝かしい歴史を更新する可能性を持っている。

収録作はアイルランドの田舎町の若者あるいはかつて若者だった者たちの話が多く、かれらのほとんどは無力で才気を持たない。けれど登場人物たちはみな詩劇の登場人物のような陰翳をそなえている。なかでも「身の丈を知る」の、理由もなく蹴られたせいで口の左側が歪んだバット、けれど報復しなかった長髪のバットの描写はとりわけ印象的である。

「私の存在を忘れてください」は短篇小説の面白さを意図的かつ禁欲的に追求した作品にも見える。導入部のパブのくだりの組みたての見事さ、かつてのバンド仲間三人の、誰にでも起こるわけではないエピソード、けれどそれがもたらす誰もが思いあたるやり場のない感情。この作品は今後しばしばアンソロジーに再録されることになるだろう。よい作家が出てきたものである。翻訳も秀逸。
谷崎 由依

■ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(若島正訳、新潮文庫・二〇〇六年)
未成年者への性犯罪事件が世を賑わせているけれど、ロリータ・コンプレックスという語の元となった本書を書いたナボコフは、それが情状酌量の余地の一切ない行為だとわかっていたから、この一人称小説の語り手が行う犯罪として選んだのだとわたしは考えている。

新潮文庫の『ロリータ』大久保康雄訳(一九八〇年)は、高校生のときに読みかけてやめてしまったから、どうかわからない。だが現在出ている若島正訳では、ハンバートの卑劣さを知悉しながらそこに同化しつつ、同時に客体化もして断罪するというナボコフの離れ業が、訳文によくあらわれていると思う。このところ大学で教えているのだが、小説の面白さは共感にこそあると信じ切っている学生たちに、その思い込みを捨ててもらうためにしばしば『ロリータ』を授業で読ませている。

……と、つい『ロリータ』のことを書いてしまったけれど、ほんとうは『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を紹介しようと思っていたのだった。わたしが初めて読み通したナボコフ、かつ初めて原書で読んだナボコフで、この経験がなければ翻訳という仕事をすることもなかったはずだ。記憶ということ、書くということ、誰かのことを考え続けた果てにそのひとと同一化してしまうこと。自分の原点にありつねに大切な一冊であり続けている。
阿部 公彦

■トマス・ハーディ『テス』上・下(井出弘之訳、ちくま文庫・二〇〇四年)、上・下(井上宗次・石田英二訳、岩波文庫・一九六〇年)ほか多数。
テス 上 (トマス・ハーディ)岩波書店
テス 上
トマス・ハーディ
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海外小説、どこからはじめていいか迷っている、という人には私はたいていトマス・ハーディの『テス』を勧めます。とにかく読んでおもしろい。

でも、粗筋だけ聞くと、この小説はとてもじゃないけどワクワクしそうには思えない。主人公テスは男に騙されて貞操を奪われ、生まれた子もすぐに亡くし、この過去のせいで運命の人との出会いも台無しになった上、つきまといにまで悩まされる……実に暗澹たる展開です。

ところが、これが小説というものの不思議なのですが、これほど陰々滅々たる話なのに、思わず身を乗り出すようにして読んでしまうサスペンス感に満ちている上、主人公テスの人徳なのか、爽快ささえ漂うほどの生命力を感じます。テスが厳しい運命に翻弄されればされるほど、その野性的な魅力は輝きを増し、私たちはまるで僅差で負けつつあるチームを応援するような心持ちになるのです。あ、惜しい、あと、ちょっと!と声を出したくなる。

作者トマス・ハーディはペシミスティックな運命観の持ち主と言われる人で、悲惨な運命を好んで小説に書きましたが、この『テス』ではハーディのテスに対する愛情があまりに露出していて、読者が驚くほどです。そこもまた読み所なのかもしれません。
三辺 律子

■ヒュー・ロフティング『ドリトル先生アフリカゆき』(井伏鱒二訳、岩波少年文庫・一九五一年)
子どものころ、誰もが一度は「動物と話したい」と思ったことがあるだろう。いや、大人になっても、ひそかに夢を抱き続けている人もいるかもしれない。

イギリス児童文学の古典である本作の主人公ドリトル先生は、動物語を解するお医者さんだ。動物たちには名医として知られているけれど、なにしろ人が良くて、お金儲けのほうはからきしだめ。そんなある日、アフリカのサルたちの間で伝染病が流行していると知って、彼らを助けにアフリカへ向かうが……。

シリーズの常連であるオウムのポリネシアや、アヒルのダブダブ、豚のガブガブら動物たちとドリトル先生の冒険談に、子どもの私は魅了された。全12冊あるシリーズを何度読んだかわからない。とうぜん、わが家の雑種犬の名前はジップ。井伏鱒二の名訳にすっかり馴染んでいたけれど、大人になり児童文学を研究するようになって、確かに今の子どもたちにはちょっと読みにくいかもしれない……と思うようになった時、河合祥一郎氏の新訳(『ドリトル先生アフリカへ行く』角川つばさ文庫・二〇一一年)が出た。あの珍獣「オシツオサレツ(pushmi-pullyu)」がどんなふうに訳されているだろうと、まずそのページを探してしまった。なるほど!

アフリカの王子が顔を白くしたがるという描写については適切な処置が望まれるだろう。その上で、「動物と話したい」という人間の根源的な欲求にこたえてくれる本シリーズが長く読み継がれていくことを願っている。
栩木 伸明

■ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』(柳瀬尚紀訳、新潮文庫・二〇〇九年)
小説は訳し直されることで古典へと近づいていく。原作の刊行(一九一四年)から百年あまりが経ち、近年に四種類もの新訳が出たジョイスの短編集を読みかえしながら、しみじみとそう思う。大昔、古い翻訳で読んだとき、登場人物たちの暮らしと心模様には濃い霧がかかっていたが、新訳で読むと細部までくっきり見える。ダブリンには最初から霧などかかっていなかったのだ。

ちょっとした待ち時間に読める短篇が一四編と、最後に長い話がひとつ。かつては読後に結論を急ぐあまり、「何が言いたいのかわからない」という苛立ちを持てあましたが、今では、冴えない町でリトル・チャンドラーやカーニー夫人が生きた物語をたどる、痛がゆいような喜びを味わえる。

既訳を乗り越えようとする訳者の苦心が積み重なって、日本語文学の中に翻訳書の居場所ができてゆく。柳瀬訳は訳注をつけない主義だが、三度の加筆が施された高松雄一訳(集英社、一九九九年)には懇切な脚注が、結城英雄訳(岩波文庫、二〇〇四年)には充実した解題が、米本義孝訳(ちくま文庫、二〇〇八年)にも訳注と解題が添えられている。それらを読み比べるところからはじめれば、ジョイス学の難しい議論にも備えられる。
高梨 治

■アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』(福田恆存訳、新潮文庫・一九六六年)
中学二年の夏、新潮文庫の福田恆存訳で読了した。爾来、何度も読み直している。余りにも有名な作品だが、真実と嘘の見分けがつかなくなったポスト・トゥルースの現在こそ、ぜひ読み直したい一冊。

小舟で独り出漁した老人がようやく獲得した巨大なカジキマグロは、帰途、鮫に食いちぎられる。港に戻った老人が疲れ果てて眠りに落ちている昼すぎ、一団の旅行者が港の水面に揺れる大きな尻尾をつけた白い背骨を見る。給士が真実を説明しようとするが、旅行者の女性は耳を傾けずに「鮫って、あんな見事な、形のいい尻尾を持っているとは思わなかった」と言うと、連れの男は「うん、そうだね」と頷く。無論、カジキマグロの骨と尻尾を鮫と思い込んでの勘違いだが、真実を知ろうとしない者の前では、老人の海での孤独な格闘=“英雄譚”は無実化してしまい、真実は決して伝わらない。それまで描かれた厳粛な自然を前にした人間存在も無実化してしまう。テレビやネットから流れるニュースに鋭利な感性をもたねば、作中の旅行者同様、勝手な誤読の連鎖が始まると改めて気づかせてくれる。『老人と海』は、いつ読んでも違った読みを提示してくれる。だからこそ、聖典なのだろう。
この記事の中でご紹介した本
2018年5月18日 新聞掲載(第3239号)
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