ノーベル文学賞受賞作家  ル・クレジオ氏来日講演 「詩の魅力」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月25日 / 新聞掲載日:2018年5月25日(第3240号)

ノーベル文学賞受賞作家 
ル・クレジオ氏来日講演 「詩の魅力」

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三月十五日、東京・本郷の東京大学法文2号館一番大教室で、ノーベル文学賞受賞作家ル・クレジオ氏の講演会「詩の魅力」が開かれた(聞き手=中地義和氏)。東京大学では、これまで同氏の講演会を三回開催している(「フィクションという探究」二〇〇九年、「文学創造における記憶と想像力」二〇一三年、「青春を書く、老年を書く」二〇一五年)。これらの講演の映像は日本語字幕付きで「東大TV」と「YouTube」で公開されている。今回の講演の模様をレポートする。

(編集部)


第1回
「詩の魅力」

講演の冒頭、中地氏は三回の講演会を振り返りながら、次のように語った。
「最初の講演はノーベル賞受賞直後、どのような原則基盤において文学を構築されているかについて、お話をうかがいました。二回目は〈モーリシャス三部作〉の翻訳が刊行された後に、創作における記憶と想像力の関係についてうかがいました。そして前回は、『嵐』(作品社)の翻訳が出て間もない時期ということもあり、フィリップ・キョウという登場人物を中心に、またル・クレジオさんご自身の子供のころのお祖母さんや叔母さんのお話も交えて、青春と老年について議論しました。毎回、詩と詩人も、必ず話題に上りました。何人かの詩人を非常に高く評価されていることは存じています。いつか詩を正面から取り扱ったお話を聞きたいと願っていました。ル・クレジオさんの文学は、詩的なものによって培われていると考えられるからです。「ル・クレジオは、小説家というよりは詩人である」と言うフランスの友人もいるぐらいです。ル・クレジオさんの中には、詩人的な側面が確かに存在していると思います。今回ようやく詩について語っていただく企画が実現しました」。

講演は、古今東西の詩を三十篇あまり引用・朗読しながら簡略なコメントを加えていくかたちで進められた。最初に取り上げられたのは、ウェルギリウス「農耕詩」第四歌、ジョフレ・リュデル「遠くからの恋」、マリー・ド・フランス「すいかずらのレー」の三篇。そこから中国前漢第十一代皇帝の女官を務めた班婕妤「怨歌行」、唐時代の李白「玉階怨」「敬亭独坐」へと、時空を超えて話題は広がっていく。歴史的に最も古いと言われる中国の詩、中でも〈詩仙〉と呼ばれ愛された李白へのル・クレジオ氏の思いは強い。

ル・クレジオ 
 李白は有名な詩人でありながらも、大酒飲みであり、また音楽をとても愛した人でした。李白は音楽なしに、酒を飲まずに詩を作ることはできなかった。奄美大島を近年訪れた時、そこでなされている三味線の演奏や、酒の飲み方を目にしたことがあります。奄美の人々は、唐時代の李白に近いところがあるような気がしました。李白は、非常に数奇な人生を送った人です。李白の名にある「しろ」という文字は、「月」を表わします。月の光が照らす場所で生まれたとも言われています。自分の人生は、月によって決定づけられてしまった。伝説によると、あまりにも酒を飲み過ぎ、水面に映った月を捉まえようとして溺死したと言われています。実話であるかどうかはわかりませんが、いわばナルシスのようにして、水に映る月に惹かれて溺れ死んだ。私はこの挿話が大好きです。


中国の詩からは、他に王維「書事」「山中」、氏がきわめてモダンな明晰さを評価する杜甫「石壕吏」、蘇軾「黄州定慧院寓居作」が引かれ、主に詩における「リズム」の問題が語られた。そして次に焦点が当てられたのが、詩作においての「イマージュの技法」。ル・クレジオ氏が取り上げたのは、松尾芭蕉の俳句十五句。「イマージュの技法が高い完成を見たのは、おそらく日本の詩においてであり、その中でも一番惹きつけられるのは松尾芭蕉」だと言う。「芭蕉は極度に制限された俳諧・俳句という技法を使いながら、私たちに生の感覚を共有させてくれた」とル・クレジオ氏。〈牡丹蕊深く分出る蜂の名残哉〉の一句に対しては、良寛の短歌と合せて、以下の解釈を示した。

ル・クレジオ 
 これは、人生のひとつのイメージを表わしています。牡丹の花、そこに蜂が止まる。芭蕉は自然を注意深く観察し、虫や蝶といった生物に自らを同一化することがありました。この句の場合、芭蕉自身が蜂と一体化している。もうひとり、良寛も好きな詩人です。彼も牡丹について詠った詩を残しています。〈深見草今を盛りに咲きにけり手折るもおしし手折らぬもおし〉。驚くべき詩だと思います。極めて知性溢れる洗練された詩です。ここでは、深見草(牡丹の別名)に対する尊敬の念と、また全く逆の思いと、ふたつに分れた感情を詠っているのかもしれません。良寛は、自作の漢詩で次のようなことを述べています。〈私の作る詩は詩ではない。私の詩が詩ではないことをわかって、初めて一緒に詩について語ることができるでしょう〉。仏教思想の影響が非常に強い言葉だと思います。しかし、この言葉の中には、詩や文学の性質についての深い考えが述べられている。詩は決して世界を超越するものではなく、それと一体化したものでなければいけない。そんな考え方が、良寛にはあると思います。これはポストモダン的な発想に近いですね。ジョン・ケージも同じようなことを語っています。〈もっとも音楽的なものは何か。それはコンサートホールの前を通るトラックの音である〉。まるで禅問答のようです。ケージと同様のことを、良寛も言っているのだと思います。
*  *  * 芭蕉、良寛に関する話題から、ル・クレジオ氏はさらに大胆な分析を試みる。アルチュール・ランボーの「永遠」を、このふたりの俳人・歌人と比較して読み解いていく。

あれが見つかった。
何が?―永遠が。
それは太陽と
行ってしまった海



「ランボーの作品の中で、最もシンプルでありながら、最も難しい作品の一つ」(中地氏)である、この「永遠」の詩を、リズムの観点から、芭蕉の俳句、良寛の短歌と結び付け論じる――(詳しくは「東大TV」に公開予定の本講演会映像を参照されたい)。

オスカー・ワイルドや韓国の現代詩人黄芝雨ファン・ジウの詩にも言及した講演の最後は、再び中国・西晋の文学者・陸機の文学論「文賦」の中から、次の引用で締めくくられた。
「宇宙の中心にたたずんで/遠く深く見わたし、/思想・感情を/古典の叡智に涵養する。/四季の循環につれて〔…〕/いったい文章の役割は、/もろもろの理を宿して伝達することにある。/万里の果てまでも遠く作用を及ぼし、/億万年の彼方にかけ橋をかける。」 (興膳宏・訳)

(おわり)
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