ショスタコーヴィチとスターリン 書評|ソロモン・ヴォルコフ(慶應義塾大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年5月26日

「聖愚者」として描く 
抵抗か服従か…一筋縄ではゆかない人物

ショスタコーヴィチとスターリン
著 者:ソロモン・ヴォルコフ
出版社:慶應義塾大学出版会
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著者のヴォルコフといえば、『ショスタコーヴィチの証言』で有名だ。晩年のショスタコーヴィチにヴォルコフがインタビューをした、という触れ込みで出版されたものの、音楽界をこえた真贋論争を呼び起こし、今日ではその信憑性についてはゼロという見方がなされている。にもかかわらず、ショスタコーヴィチの息子のマクシムがいみじくも言ったように、「父の本ではなく、父について書かれた本」であることには間違いない。また、ソ連の御用作曲家のように思われてきたショスタコーヴィチの作品に、実は反政治性を始めとする真のメッセージが密かに込められている、という点において、従来の彼のイメージを覆す書だった。

それから幾星霜。ヴォルコフが2004年に出版した新たなショスタコーヴィチ本…しかもまさしく「ショスタコーヴィチについて書かれた大著」が、ついに日本語訳された。既に日本でもショスタコーヴィチに関する文献が多く見られるようになってきた中での出版だが、『ショスタコーヴィチの証言』の方向性を維持しながら、同書との差別化を図るべく、そこからの引用は最小限にとどめるといった具合に、世紀の論争を巻き起こした著者だからこそ書き得た一冊となっている。じっさいこれは、ショスタコーヴィチと同時代のソ連の芸術家、さらにはソ連やロシアそのものを描いた文化史の本であって、「ショスタコーヴィチの音楽の分析に携わらず、その代わりにスターリン時代の政治的文化的環境、独裁者と当時の指導的な芸術家との関係に注目」している点が特徴だ。

それにしても、ショスタコーヴィチとは一筋縄ではゆかない人物である。特にその人生に決定的影響を与えたスターリンの独裁政治の下で、ショスタコーヴィチはスターリンに対し、抵抗しているとも服従しているとも言い難い態度をとり続けたからだ。著者はそんなショスタコーヴィチの捉えどころのなさを、ロシア特有の「聖愚者」のイメージと重ね合わせ、彼の態度はロシア文化が脈々と培ってきた産物に他ならないことを明らかにする。またショスタコーヴィチに先駆け、自らそうした「聖愚者」たらんとした芸術家として、作家のプーシキンと作曲家のムソルグスキーからの影響の指摘も。

では、「聖愚者」とはどのような存在なのか。著者曰く、「芸術家の自伝的な化身」であり、「その化身は、踏みにじられた民衆の名において、危険だが必要な真実を皇帝の目前で語るのである。これは、ショスタコーヴィチが自分のライフ・モデルとして設定した役割」、ということだ。しかもショスタコーヴィチはそれに加え、プーシキンの戯曲をムソルグスキーがオペラ化した『ボリス・ゴドゥノフ』(この作品でも聖愚者が重要な役割を果たす)に内包された、「年代記作者と〔皇帝継承者と偽った〕詐称者」という「虚構の仮面」をも駆使し、合計3つの仮面を巧みに用いてスターリン時代を生きていった、というのが本書を貫く見方である。

では、そんなショスタコーヴィチの振る舞いは、いかなる成果となって現れたか。例えば、体制の反逆者として彼が粛清の危険に晒される中、名誉回復に向かうきっかけを作った『交響曲第5番』に対して、当局の側がどう扱えばよいのか当初大いに戸惑ったという出来事。あるいは脅迫めいた電話をかけてきたスターリンに対し、冷静沈着な機転をきかせたショスタコーヴィチが巧みな反撃をおこなったテン末。いずれをとっても、スターリンという存在があればこそ、ショスタコーヴィチが…好むと好まざるとにかかわらず…身に付けざるをえなかった処世術が克明に描かれてゆく。

ただし、恐るべき権力者に対する食えない芸術家の痛快な立ち回り、と評してしまうには、ショスタコーヴィチの人生はあまりにも深刻だ。恐怖政治の下、彼の作品に我を忘れて熱狂した聴衆も含め、それは、『ボリス・ゴドゥノフ』に描かれた聖愚者の叫びを思いこさせる。「悲しみ、ロシアに悲しみあれ/泣きなさい、泣きなさい、ロシア人よ。」(亀山郁夫・梅津紀雄・前田和泉・古川哲訳)
この記事の中でご紹介した本
ショスタコーヴィチとスターリン/慶應義塾大学出版会
ショスタコーヴィチとスターリン
著 者:ソロモン・ヴォルコフ
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年5月25日 新聞掲載(第3240号)
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