野蛮なアリスさん 書評|ファン・ジョンウン(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年5月26日 / 新聞掲載日:2018年5月25日(第3240号)

私たちの社会で虐げられた人々の声と共鳴する物語に響き渡る声

野蛮なアリスさん
著 者:ファン・ジョンウン
出版社:河出書房新社
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本紙二〇一八年五月四日号の特集「新しい文学が生まれる場所」で気鋭の韓国文学翻訳者斎藤真理子氏がファン・ジョンウンについて、「ストーリーがいいとか描写がいいとか、そういうことではなく一体となって書かれたエクリチュールを浴びるように体験する。そういう作家だ」と言っている。誤解のないように記しておくと、物語を掘り下げたところで聞こえてくる声、それがページの隅々に響音する、そうしたファン・ジョンウンの特異性を斎藤真理子氏は言い当てているのだ。

例えば、短編集『誰でもない』では、韓国にある時から巣食うようになってしまった閉塞感を、なんでもない日常のなかで発せられる声によって表現している。そのような小説家は今自分のいる世界の欠落を物語によって読者に感じさせようとしているのだろう。

本書もまた、世界の欠落を物語によって表現する、そのようなタイプの小説だ。物語は「私の名前はアリシア。女装ホームレスとして、四つ角に立っている」という衝撃的な一文で始まる。アリシアはその奇異な姿、体臭によって人々から不快がられる。けれども、人々が気味悪がるたびに、アリシアは自分がアリシアであることを確認し、その場所に居続ける理由を見出すのだ。

アリシアはコモリという町で生まれた。コモリは、現在は存在しない。開発され、マンション地帯となったからだ。アリシアが子どもの頃、コモリには数十世帯の家族と子どもが四人だけいた。ほんの小さな町だった。アリシアと弟、そして親友のコミはその辺鄙な町で育った。

両親は、補償金を得るために家を改築していて、アリシアと弟はぼろぼろのコンテナで暮らしていた。アリシアと彼の弟、そしてコミの周りにはおよそ暴力と考えられるものならなんでもあった。いじめ、虐待、ネグレクト……。アリシアは彼に、彼の弟に、暴力をふるう人間を、つまり母親を、「クサレオメコ」と呼ぶ。
「クサレオメコがアリシアの弟を殴るとき、アリシアはアリシアの体にしみついたクサレオメコをすべて動員してウォリアーになる。クサレオメコウォリアーは、突進する。突進につぐ突進。クサレオメコな彼に敗北はない。嘘だ。敗北する暇などなく、彼はそのときが過ぎるのを待っている」

敗北のような日常。劣悪な生活環境。アリシアは生き延びるのに必死だ。暴力が暴力を生む。その哀しみ。読者は思わず息の詰まる思いをするだろう。しかし、それはアリシアがかわいそうだからではない。アリシアの世界の欠落を埋める術を、私たちが知らないからだ。

アリシアの物語は、ある事故によって、決定的な悲しみを生み出す。そして、アリシアが、故郷を喪失した彼が、女装をして街角に佇むホームレスになってしまったことを、読者は理解する。なぜ、アリシアが敗北した生を生きているのかを理解する。

物語の語り手は読者のことを「君」と呼ぶ。「君は、どこまで来ているだろうか」と時折、呼びかける。読者がアリシアの世界で迷子にならないように、語り手はガイドをつとめるかのようだ。語り手はこの暴力で腐敗した世界をくまなく案内する。しかし、読者は既視感を覚える。この世界は私たちの世界のある側面でもあるからである。

物語に響き渡る声は、私たちの社会で虐げられた人々の声と共鳴する。だから、作者の語りは強い。読んでいて、手が震えだすほどに強い。この物語が存在することだけが救いのような、そんな気になるのだ。(斎藤真理子訳)
この記事の中でご紹介した本
野蛮なアリスさん/河出書房新社
野蛮なアリスさん
著 者:ファン・ジョンウン
出版社:河出書房新社
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