佐藤淳二「68年から人間の終わりを考える」/小泉義之「1968年以後の共産党」 <68年5月>と私たち 京都大学人文科学研究所2018連続セミナー第1回載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年6月1日 / 新聞掲載日:2018年6月1日(第3241号)

佐藤淳二「68年から人間の終わりを考える」/小泉義之「1968年以後の共産党」
<68年5月>と私たち
京都大学人文科学研究所2018連続セミナー第1回載録

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第2回
資本による「疎外革命」

ヴィクトル・ユゴー像(ソルボンヌのチャペル前)
西川長夫による写真詳細説明
赤旗と黒旗を抱かされたヴィクトル・ユゴー像。台座にPSU(統一社会党)のビラの上部を隠すように張られた紙には、「ソルボンヌはツーリスムの場所ではない。自らを政治化せよ」と書いてあり、その下の赤い小さな文字は「自由オクシタニア」と読める。もしそうだとすれば、オクシタニア(南フランス)の独立にかかわることであろうか。後方のチャペルの外壁にも、さまざまな文字が記されている。左端は「キリストは唯一の革命家だ」と判読できるが他はよく読めない。ヴィクトル・ユゴーの厳しい表情がいっそう厳しく見えないだろうか。(176頁)

佐藤 
 第二の論点は、68年で露わになった人間の終わり、その意味での疎外の終わりという点に関わってきます。人間の疎外は、現在克服されつつありますが、問題は、それが資本の力によるというところにあります。この問題は、次に論じる「科学による人間の解体」という論点と表裏一体です。

そもそも人間主義の原点が初期マルクスであり、1844年の『経済学・哲学草稿』であったとすれば、そのポイントは、一言で言うと、資本と対立するものとしての「人間」という論理です。資本は、利潤率の最大化を求めて絶えず移動し、何にでも姿を変え、無際限に加速し、無制限に市場という平滑な平面を運動する。これに対して、労働力たる人間は、商品を作る商品ではあるものの、身体という制約から逃れることができません。人間は、休息し睡眠時間を確保し、食事し、自らを再生産しなければ確実に死ぬ。過労死という限界から出ることは、出来ない。一方で資本は、スーパーマンのように移動し、魔法使いのようにあらゆるものに変身する。資本は、人間に制約を超えるよう平気で要求する。資本には想像力が欠如し、無痛であるから他人の痛みに無頓着であり容赦ない。資本は人でなしとなる運命にある。だから人間は、資本に振り回され、エネルギーをひたすら貪り食われてしまう。なぜか? 人間が、商品なしでは生きていけなくなっているからであり、分業のネットワークに委ねられ、骨の髄まで商品の滋養で生きているからです。これが「疎外」と呼ばれる事態に他なりません。疎外は、ネットワーク依存症であり商品中毒症であるが、現代はその最果ての状況に至っていることは明らかでしょう。その根源は、資本と人間の勝負にならない対立、無限と有限が戦うようなフェアでない関係にあります。資本の前では、人間は剥き出しになり、商品のネットワークにバラバラにちぎられて吸収されざるをえません。

人間主義は、このような資本のネットワークから「人間」の本質を解放することを目指しました。ところが60年代になると、精神分析やハイデッガーの存在思想の影響も大きいのですが、繰り返しますと、構造主義の衝撃によって、構造すなわちネットワークから離れたところに人間の本質なるものがあるのか?という疑問が広く共有されるようになったのです。

68年5月革命は、人間の本質がネットワークの外のどこかにあるのでもなく、かといってネットワークに解消されるのでもない、どこにあるかが問題となるということを明らかに見せてくれました。ネットワークが自分自身を生産するとして、その自己関係が定位する平面とは何か? この問題こそ、現代思想のパラドックスであり、その鍵となります。思えば68年フランス5月革命でストに参加した一千万人の多くは、組織されていませんでした。
佐藤 
 党との密接な関係のもとに、労働者が生産拠点で評議会などを組織し、社会の基盤としての労働者の団結によって敵の暴力装置を打ち破るといった古典的な革命の姿とは、まったくと言って良いほど無縁な「革命」だった。高度に発達した資本主義国家では、もはや古典スタイルの革命理論こそが破産しているのではないか、そのことが見えてきた瞬間、それが68年5月革命であった。だからこそ、もはや組織や党に所属したくない、ネットワークからのパラドックス的な差異の中にこそ、人々は生きる場所を求めたといえるでしょう。

だから68年の革命の後で、ダニエル=コーン・ベンディットら、多くの学生リーダーが政治家に転身し、あるいはネオリベラリズムやネオ保守主義などなどを標榜しもしましたが、それはそれなりに当時見えてきたもの、彼らがその時見たものをその後の人生で表現したのかもしれません。そこで表現されてきたものとは、人間を拠り所とした左翼の破産を継いだのが、他ならぬ資本による革命だということでしょう。なぜなら資本こそが、左翼の破産を解剖吟味し、それを栄養素として吸収し尽くしてきたからです。人間が資本に付き従い得ないこと、すなわち「疎外」という深刻な事態を、資本こそがより深く理解し、その克服を生き残りの至上命題として捉え返したのです。つまり、身体の制約を生物学・生理学的などのテクノロジーによって克服する課題として「疎外」を捉えたといえる。現在のわたしたちの目の前に展開するテクノロジー、iPSやらAIやらが、資本による疎外革命の橋頭堡として姿を現したのです。
科学あるいは人間の終わり

佐藤 淳二氏
佐藤 
 人間をいかにして完全な商品とし、資本にどこまでもついてくることのできるオブジェへと改良するかは、もはやブラックユーモアではなく、日々シリアスな課題になっています。中国共産党が展開する監視社会、情報化された電脳コントロール社会というディストピアは、人間を資本そのものとするための最先端実験場であるかもしれません。

ともあれ、68年の反人間主義の顕在化は、資本の側にもっとも先鋭化して現れ、この50年をリードし続けたといっていいでしょう。68年の教訓をもっとも忠実に実践したのは、資本そのものであったかもしれない。人間を疎外から「解放」すること、その身体的な制約を取り払うこと、これが68年以降の資本の至上命題ではなかったでしょうか。

すでに述べたように、68年5月革命は、組織から離脱すること、しかも絶対に離脱するという現象を世界に広めました。絶対に、というのは、組織から個人になるというのではない。組織も個人もない空間へと、絶対に離れるという意味です。それは、神からも、その近代版である国家や「党」からも離脱するという絶対的な無政府主義であり、アンチ前衛党であり、統治手段としての労働組合の拒否であり、ポリス・統治の全面的拒否となります。このような課題がわたしたちに突きつけられているのです。ポスト68年の時代に、多くの活動家や5月革命のリーダーたちが、「小さな政府」を唱えるネオリベラリズムに合流し飲み込まれていったのも、あながち「転向」とばかりはいえないのだろうと言ったのは、こういう意味においてです。彼らは資本と軌を一にして疎外を克服せんとしたとも言えるのです。

このような脱国家、脱組織、脱前衛党(脱知識人)の時代は、科学知による大再編の時代だった。それがまさに、ポスト68年とわたしたちの関係ということになるでしょう。68年の頃には、まだごく限られた人々にしか見えなかったことが、いまや私たちの前にある。科学技術の進展であり、人工知能の現実化に至るデータ処理の飛躍的進歩、そしてiPS等の再生医療などを通路にしての、生命工学の進展つまりは生命と機械、動物、環境の技術的接合の進展です。例えば、まだ68年くらいなら、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』に述べられた人間生活の理想に共感できたかもしれません。それは、分業の職種への固定化を乗り越えて、ひとりひとりがネットワーク全体のどこにでも現れ得るというユートピアです。マルクスの言葉を引用します。
「私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩をし、そして午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである」(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』廣松渉・小林昌人編、岩波文庫)

技術が人間の道具であるならば、そしてその道具を完璧につかいこなすことが出来るならば、わたしたちは身体の制約を超えて、無限のエネルギーを手に入れ、労苦としての労働から解放される。そうしてマルクスの初期の一貫したテーマである身体の制約が克服されるだろう、そういう夢をかつては見ることができた。いまや、これは、わたしたちがマシンに取り込まれ、技術に包摂されるということを意味しています。つまり、技術は道具ではなく、われわれこそが、技術のデータであり素材であり原料となったからです。

リン・ランドルフの有名な絵(『サイボーグ』1986年)を思い出してみてください。データ化されて、機械や動物と一体化した女性を超えた女性、ジェンダーの制約を乗り越えた人類がそこには描かれている。そしてこの絵こそ、いまや「リアル」なのです。考えても見ましょう、宇宙ステーションから地上を見るカメラには、わたしたち一人一人は60億分の1の単位で動いている粒子として映っている。10億分の1はナノの世界ですが、いまやこの水準でテクノロジーは粒子を制御しています。わたしたちをそのような単位で統計処理するビックデータの時代とは、人間をナノテクノロジーで管理する時代を意味します。(「優生思想」との関連を不問に付されて礼賛されている)生命工学や幹細胞技術が、これに加わるといったいどういうことになるか、想像するのは容易です。人間の疎外は、人間をアンドロイド化し、身体のリミットから解放することで、克服される。資本のネットワークに人間は最終的に吸収されるでしょう。科学による人間の終わりです。

国家から離脱する大衆の動きとデータ情報技術進展の奇妙な一致、それをめぐる人間と資本の壮大なドラマが、68年5月から政治空間に現れ、われわれをずっと絶えず運んでいっています。いったいどうしたらいいのか? 偶然のどんでん返しを期待する哲学ファンタジーは論外として、われわれに出来ることは、新しい「センサー」の発明であり、芸術や哲学思想という新しい「思考実験」の遂行のみであること、その可能性を確認するものこそ68年フランス5月革命であり、「5月」が真に「革命」であった所以なのだと、わたしは思います。 (おわり)
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