佐藤淳二「68年から人間の終わりを考える」/小泉義之「1968年以後の共産党」 <68年5月>と私たち 京都大学人文科学研究所2018連続セミナー第1回載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年6月1日 / 新聞掲載日:2018年6月1日(第3241号)

佐藤淳二「68年から人間の終わりを考える」/小泉義之「1968年以後の共産党」
<68年5月>と私たち
京都大学人文科学研究所2018連続セミナー第1回載録

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第4回
安保と沖縄 1970―1971年

小泉 
 1968年とそれ以後についての歴史叙述の多くは、大学闘争が全国化し政治化していく過程を無視してきました。いまでも研究者の大半は、安保闘争にも沖縄闘争にもまったく言及しません。社会主義にも共産主義にも、資本主義にも帝国主義にもまったく言及しません。研究者の大半は、68年から70年代初めにかけての闘争を、市民運動や社会運動の先駆けと見なすだけであり、大学闘争から安保闘争・沖縄闘争への政治過程を完全に無視するのです。それどころではなく、その政治運動は、すべて「内ゲバ」へと変貌して瓦解したかのように描き出してきました。こうした点については、すでにカ秀実『1968年』(ちくま新書)が決定的な見方を提示していたにもかかわらず、アカデミズムはそれをまったく顧慮していません。

このようなアカデミズムの歴史観に抗してあらためて想起して確認しておきたいのは、大学闘争を経て、旧左翼も新左翼も、闘争の全国化と政治化を目指し、その闘争は安保と沖縄に関わるが故に、不可避的に革命的情勢を招くものと見なされていたということです。端的に言うなら、69年から70年にかけ、旧左翼も新左翼も、革命の到来を予期していたのです。夢想していたのではなくリアルに予期していたのです。これは自民党・政府にとっても同様でした。この点で、最低限、銘記しておくべきは、70年の安保闘争、71年の沖縄闘争は、ともに軍事に関わる闘争、すなわち、国家の最大の暴力装置である軍隊に関わる闘争であったということです。70年以後、左翼が選挙で多数派を獲得した場合、日米安全保障条約の廃棄通告を行うことができるようになりますが、そのことが意味することは、たとえ平和的かつ民主的に左翼が議会多数派を獲得しても安保の廃棄通告にいたるなら、必然的に米国と日本の軍事力と対決せざるをえなくなるということです。それはとりもなおさず、国家権力の奪取へと移行せざるをえなくなるということです。共産党が人民的議会主義や構造改革路線を採用しようが、日米の軍事力と対決せざるをえない局面が必ず生まれるのであり、だからこそ共産党は「敵の出方論」「正当防衛権論」を堅持せざるをえなかったのです。71年、人民的議会主義を打ち出した不破哲三書記局長さえも、次のように語っていました。
「国会で自民党が多数を取っている状態では、われわれは積極的なことをやる多数派をなかなかつくれない。彼らの多数が国民の意思に反して無茶なことをやるのを、内外呼応して押えることはできても、別の方向に動かせることは、至難のことです。〔……〕いまのような状況で、自民党が多数でやろうとしているときに、これを阻止する道は、主権者である国民の介入以外にはない。/院外行動はこういう重大な問題に対して、国会外にある主権を持っている国民、〔沖縄返還〕協定の内容に賛成できない国民が、その意思を国会に反映するさまざまな行動をとるわけで、それが国会の中での活動と相まって、力になるわけです」(『世界』71年12月号)

一見、凡庸な方針を述べているように見えますが、当時の「院外行動」の「力」は、共産党にあっても相当に急進的であったことを想起するべきです。いかに議会主義へ傾こうとも、革命的情勢の到来を予期する限り、議会外の「主権」が「力」を発揮する闘争戦術を重視せざるをえなかったのです。これに関連して、共産党系青年学生運動で最も有名であった文書である『君の沖縄』(学習の友社)の一節を引いておきます。カ秀実のいう「加害者意識」、言いかえるなら抑圧民族としての自覚が、急進化を促していく様子が垣間見えます。
「「安保繁栄」は、ぼくたち本土の労働者の血と汗がしぼりとられた結果であることはまちがいない。/だがそれだけではない。/ぼくたちの血と汗よりももっと多くの沖縄県民の血と涙、ベトナム人民の血が流されたことのうえに、それはなりたってきた」
「考えてもみてくれ。沖縄を自分のこととして考え、とらえることができ、そのためにたたかう労働者の若い群像が、日本中の職場に、地域にみちあふれたときのことを。/支配者は、ふるえあがるだろう。あの六〇年安保のデモのうずをみて、財界人の一人が「これは革命じゃ」と叫んで食事中にスプーンを落としたように。そして、七一年の統一地方選挙の結果をみて、「日本の未来がわからなくなった」と叫んだ新日鉄の稲山社長のように。支配者はつよそうにみえるけど、公害・物価・「合理化」への怒りと沖縄問題が合流することを、おそれおののいているのだ」

新旧左翼諸党派の多くは、革命的情勢の到来を予期する点で「一致」していました。そして、大衆運動のレベルでも、当面の政治闘争の課題の面では「一致」点が多かったことを想起しておきたいと思います。この点で、文書に残されたものは少ないのですが、東大闘争を指導し、後にその指導を外された広谷俊二によるものを引いておきます。限界のある言い方になっていますが、新旧左翼の大衆運動の「一致」について、次のように書かれています。
「〔トロツキスト各派は〕反帝、すなわち帝国主義に反対するとともに、反スタ、すなわちスターリニストに反対するというのである。かれらのいうスターリニストとは、社会主義諸国の政府と各国の共産党をさしている。したがって、共産党にとっては、トロツキストは、自己を帝国主義と同列において敵視し、打倒しようとしている勢力であるから、統一してたたかうべき対象とみなすことはできない。しかし大衆運動のなかでは、相互に敵対視する党派であっても、いっしょにやらないわけにはいかない。トロツキストがいるからといって、共産党員が学生自治会から出てゆくわけにはいかないし、トロツキストだからといって、それだけの理由で学生自治会から除名することもできない。役員選挙で双方が立候補してあらそって、結果として、例えば委員長に民青同盟員、副委員長に「革マル派」なり「中核派」なりが選出されたとすれば、一緒に仕事をしないわけにはいかない。〔……〕彼ら〔トロツキスト〕を、学生統一戦線にくわえることができないというのは、彼らが反共主義的政治方針をもっているからではなく、民主主義をじゅうりんし、大衆組織を分裂させる集団だからである。それでは、彼らが民主主義を尊重し、内ゲバをいっさいやめたら、統一にくわえるべきであろうか。しかり」(広谷俊二『学生運動入門』日本青年出版社)

そして、このような共産党の「作風」は、広く学生党員に広まっていたと言っておきたいと思います。そして、この「作風」は、68年後も、安保闘争と沖縄闘争でも基本的に維持されていました。ところが、共産党中央は、学生党員に広まったこのような「作風」を粛正していくことになります。その手始めが、「新日和見主義」批判でした。
新日和見主義批判 1972年

ソルボンヌ中庭のパスツール像
西川長夫による写真詳細説明
(パスツールは)ブルターニュの旗をもたされている。これは明らかにブルターニュ独立運動の活動家によるものだろう。六八年五月には注意深く耳をすますと、抑圧された若者たちの声に隠されるようにしてではあるが、抑圧された周辺部の住民の反抗の声が聞こえてくる。(177頁)

小泉 
 1972年に、共産党中央は、学生運動と青年運動を担う党員たちに現われた傾向を「新日和見主義」と呼称し、一定数の党員を査問にかけて大衆団体幹部から外し、新日和見主義批判の過程で、少なくない党員を離党へと追いやっています。共産党中央は、その総括的文書の序文で、次のように書いています。
「一九七〇年代にはいって、内外情勢のきわめてはげしい変動と諸闘争の急激な進展にともなう小ブルジョア的動揺や混迷の影響のもとで、アメリカ帝国主義の侵略性の軽視、「日本軍国主義主敵論」、「大衆闘争唯一論」などを内容とするあたらしい型の日和見主義の潮流が発生しました。/これとむすびついて若干の大衆団体のグループなどに分派主義的、非組織的活動があらわれましたが、党はこうした策動にたいして断固としてまた機敏に思想的、組織的闘争をおこない、これを粉砕しました」(日本共産党中央委員会出版局『新日和見主義批判』)

ここで、「アメリカ帝国主義の侵略性の軽視」は日本国家の対米従属性の軽視を意味します。共産党中央は、新日和見主義が61年綱領の従属国規定に反していると判断したわけです。また、「日本軍国主義主敵論」は新左翼党派の主張と同じであり、「大衆闘争唯一論」は前衛党を不要と見なす新左翼の一部の主張と同じであり、総じて、共産党中央は、大衆団体の党員が革命の戦略と戦術においても新左翼的に変質していると判断したのです。その限りで、それは、「左翼」日和見主義、「極左」日和見主義と呼称されてもよかったのですが、共産党中央はそうはせずに「新」日和見主義と呼称しました。その理由は、共産党中央が、党内の左翼日和見主義の潮流だけではなく、とくに知識人党員に広がりつつあった右翼日和見主義、すなわち、構造改革路線やユーロコミュニズム路線を掲げて、民主連合政府の樹立による政治民主主義と経済民主主義の実施を通して連続的かつ平和的に社会主義へ移行できるとする議会主義的偏向を同時に退けようとし始めていたからです。要するに、「新」日和見主義とは、左翼日和見主義と右翼日和見主義の総称でした。こうして、70年代の共産党中央は、一方では、「沖縄協定を日本軍国主義の全面復活ないしファシズム確立論にむすびつけ」、「事実上トロツキストの主張と同じ方向をもつ単純な「沖縄協定粉砕」論の立場」をとって「小ブル急進主義的な焦燥感を組織し」、「自己の属する大衆団体や大衆運動を党にかわる一種の「前衛組織」」と見なす潮流を退けると同時に、他方では、「大衆運動を誤った政治的中立主義の道にひきいれ」、社会民主主義や新左翼との闘争を放棄していく潮流を退けて、「自覚的民主勢力の内部に生まれる日和見主義的傾向との思想闘争」、「知識人・文化戦線での思想闘争」を強めていくことになります。

ここで注意しておきたいのですが、60年代までの分派主義との闘争とは違って、共産党中央は新日和見主義の排除に際し、党規約違反を理由とする除名を主要な手段とはしませんでした。新日和見主義は、あくまで分派主義「的」な「潮流」「傾向」であって、一部の分派形成の動きを別とすれば、党規約批判を持ち出すわけにはいかなかったからです。そのため、共産党中央は、70年代から80年代にかけて、大衆団体の分裂も引き起こしながら、広範囲にわたる「思想闘争」を展開していくことになります。そして、この点の評価が難しいところなのですが、70年代の共産党中央は、急進的な革命的潮流と議会主義的な改良主義的潮流の双方を退けながら、独自の革命の展望を堅持しようとしていたと言うことができます。

とくに学生運動について見ておくなら、共産党中央は、「闘争戦術、闘争形態、闘争方針」に対する「トロツキストらの影響」を払拭しなければならないとし、それまでの正当防衛権論に基づく対抗―暴力を放棄して、「暴力を断つための有効な一闘争形態として法的手段をも活用すること」へ方針を転換しなければならないとしました(日本共産党中央委員会出版局『青年学生運動と日本共産党』)。さらに、共産党中央は、学生運動を学生自治会の大衆運動へ切り詰めていきます。同じ文献には次のようにあります。
「現在の学生運動の大きな弱点の一つは、学生の先進部分だけの運動におちいる傾向である。学生運動を、学生の共通の要求の実現をめざし、真に広範な学生の意思にもとづく圧倒的多数の学生が参加する運動に発展させることが、いま強く求められている」

ここから振り返るなら、学生運動における左翼日和見主義批判の淵源を、あの68年11月に求めることができます。大窪一志は、68年11月に党方針の「大転換」があったとして、次のように証言しています。68年11月初め、文学部で「無期限カンヅメ団交」が始まったが、「団交が数日つづく中、突然、文学部の共産党員に、有無をいわせぬ「撤退命令」が伝えられ、翌朝の『赤旗』に党中央青年学生対策部副部長・土屋善夫名の「声明」が出て、僕らにはなんの事前連絡もなしに、東大闘争のあり方を非難し、方針転換を示唆した」、そして、東大党員集会が招集され、学生党員の極左的偏向が批判された、とです(川上徹・大塚一志『素描・1960年代』同時代社)。
「そうした措置が一方的におこなわれたのちに、中央委員会書記局の名前で、東大の全党員が召集された。農学部の大教室で夜間おこなわれた会議では、書記局から東大細胞に対する一方的な批判がおこなわれ、この極左的偏向は思想的な問題だと断罪された。〔……〕僕らはいっさいの意見をいうことができなかった。そして、それを禁じた党中央に、僕らは根本的な不信感を懐いた」(同書)

ところが実力行使・無期限ストライキといった方針に象徴される新日和見主義的傾向そのものは、共産党中央が、革命政党であろうとする限り不可避的に出てくる傾向であったと言わざるを得ません。実際、共産党中央は、「70年代の遅くない時期に」民主連合政府を樹立するとの方針を掲げましたが、その展望は、安保闘争と沖縄闘争を経て、72年の総選挙での共産党国会議席増加によってリアルになっていました。しかも、安保廃棄通告がいつでも可能になった70年代において、民主連合政府が革命政権に移行すべきなのは自明と見なされていました。共産党中央の方針そのものが、左翼日和見主義的な傾向を孕んでいたと言えるのです。

ところが、共産党中央は、党内のその傾向を何としてでも切って捨てようとしました。何故でしょうか。「穏健」な左翼政党へと変化することを示すという選挙対策の面が多分にあったとは言えるでしょう。また、これは大きな要因であったと思いますが、チリの民主連合政権の趨勢に怯えたとも言えるでしょう。いずれにせよ、共産党中央としては、社会党に代表される社会民主主義の改良主義路線と党内部の急進主義的革命路線をともに退けて、その独自の革命路線を堅持するためであったと言えます。

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