壁抜けの谷 書評|山下 澄人(中央公論新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年9月30日 / 新聞掲載日:2016年9月30日(第3158号)

読むことを通して生の認知の仕方を揺り動かされることの快さ

壁抜けの谷
出版社:中央公論新社
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壁抜けの谷(山下 澄人)中央公論新社
壁抜けの谷
山下 澄人
中央公論新社
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昔仲の良かった長谷川が死んだ。長谷川の妻が吉井であることを「ぼく」は知らなくて、吉井と一度セックスしたこともミサだったと覚え違いしていて、吉井の娘の翠は長谷川の子なのか誰の子なのか、「ぼく」が名付け親なのだが「わたし」でもあり、「わたし」の娘のカエデは武藤の子で、武藤はどうも「ぼく」らしくて、すでに老いていて、すでに死んでいて…。要約しても無駄だろう。

怖い小説である。もし人は死の瞬間を無限に引き延ばされた時間として、あるいは死後に、純粋な思念体となって、このような夢を永遠に見続けるとしたら…。S・ベケット的ともいえる存在それ自体の怖さがある。同時に、生死のあいまいな世界特有の認識のほころびを描いて、そこにユーモアを乗せるサービス精神は、内田百閒的でもある。まるでボケ老人の「意識の流れ」を描いたようでもあり、急に記憶違いと気づく〈切り返し〉は笑いを誘う。それに、正者と死者の混在する共同体の描き方は、J・ルルフォ的でもあるだろう。

本作のスタイルは、そんな先人たちにも多分立ちふさがったはずの約束事の壁を、よじ登らずしてするりと通り抜けてしまったと見える。宇宙人もどきの「星」と呼ばれる結合双生児(二人で一人)が象徴的に登場すること、「壁抜け」の語に物理学系の匂いがすることに因んで、某SF映画を参考に高次元イメージに例えてみよう。もし五次元生命体がいるとしたら、人間が三次元の対象物を加工できるのと同じように、時間軸のゆがんだテサラクト(四次元超立方体)を自在に扱うことができる。だが、その場合の三次元人間世界は観察の対象でしかない。高次元存在は低次元世界の「壁抜け」はできても、その住人と特定のコンタクトはできないからだ。高次元は「事象の地平面」の向こう側にあり、人間が行き着くことはない。

けれど、小説では「地平面」の境界を作っているのは言表(語り)だから、簡単にいうと、書き手が小説内からみた五次元生命体である(登場人物の側からは意識できない)。ところが、この小説は言表の次元を内側に組み込んだテサラクトを描いていて、しかも登場人物がその高次元座標に出入りできる世界なのである。のみならず、結局は「作りごと」をいいことに、書き手が適当に書きつつ忘れ、読み返し、設定を書き換えていく生成途上の世界である。そのため、「ぼく」「わたし」は世界の中の自己と他者、過去と未来、さらには夢と現実の区別までも自由に「壁抜け」できる。結果的に、地の文で回想している「ぼく」の記憶はあやふやとなり、それは「違うと思う」と死んだはずの長谷川が読み手として声で介入したり、「頭から読み直してみ」と母が言い、地の文の「わたし」が「これを?冗談じゃない」と思ったりする高次元コミュニケーションが鮮やかに展開するのだ。

読者は変な抵抗をせずに「ぼく」「わたし」に同化して、余剰次元の重力感覚に身を委ねてしまうのがいい。読むことを通して生の認知の仕方を揺り動かされること。その快さ。これまで作者は中編程度でも、人物の生涯を描き切ることが多かったが、今回も、凡庸で冴えない、クリシェな出来事の集積で成り立った一生である。だが、不思議な哀しさ・美しさを帯びた一生である。きっと高次元空間に変換された人生は、自己意識に凝り固まった物語より、はるかに複雑で美しい構造体だからだろう。その様態にあって、人はもはや死ぬことも困難なのだ。
この記事の中でご紹介した本
壁抜けの谷/中央公論新社
壁抜けの谷
著 者:山下 澄人
出版社:中央公論新社
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