曇天記 書評|堀江 敏幸(都市出版)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月2日 / 新聞掲載日:2018年6月1日(第3241号)

クラウディなスクリーンの澄明な風景 
たおやかに顕在化する「私」

曇天記
著 者:堀江 敏幸
出版社:都市出版
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曇天記(堀江 敏幸)都市出版
曇天記
堀江 敏幸
都市出版
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たとえば、「長崎は今日も雨だった」を英訳しようとするとき、もちろんitを使って単純に構文をつくることができるが、結果的に日本語の文法にはないその構文では確実に失われるものがある。言うまでもなくそれは、「長崎は今日も雨だった」という字句の表面には顕れない、だがそこに間違いなく介在している、降り続ける雨を見続ける主体=「私」の存在である。堀江敏幸『曇天記』は、そうした風景に埋め込まれそうになる「私」を、たおやかな意思をもって顕在化させる試みジャーナルと言える。

その策略をまず、表紙に掲げられた鈴木理策の曇天写真に読む。ロケーションは首都圏私鉄沿線の都と隣県の境となる大きな河である。それ以前に私たちは、本書に収められているのが「東京人」という雑誌に連載の、もっぱら東京をその風景に刻む小片エッセイ群であることを承知している。ところが表紙写真を見ると、そこに埋め込まれた「私」は東京の側ではなく隣県の側の岸にいる。そして「私」は何を見ているか。橋の上に三輌分ほど身を晒した銀色の電車か。左手奥に見える、遠方から願望者が訪れることで知られた自殺の名所たるマンションか。いや、そうではない。「私」が見るのは、灰色の空を舞う無数の黒い異物だ。鳥かもしれないし、煤の塊かもしれない。判然とはしない。けれども当たり前の電車でもマンションでもなく、普段は見えないその黒い異物に凝らす目を通じて風景に埋め込まれた「私」が顕在化する。隣県の側から、顕在化される「私」の視線は、異物を通して、その先にある、東京へと注ぐ。それと同じ視線が本書のそこここにあり、光とも呻きとも区別できない物質がリフレクターを照らす。


通り過ぎる乗り手の多くは女性で、片手でハンドルを握り、赤、透明、黒と、さまざまな色の傘の帆に風を孕ませている。そのうちの何割かは、後部に取り付けた座席に雨合羽を着た子を乗せていた。これだけの豪雨をものともしない母親たちの勇気に感服しつつも、転んだりしないかと気が気でなかった。

 

どこにいても、なおさら東京にいるなら、見慣れた、を通り越して、見飽きた光景である。あえて書き立てるべきことでもない。だが「私」はそこに黒い異物を見ている。それは違反の黒。傘差し片手自転車運転は東京都道路交通規則上の罰則を伴う危険行為にあたる。そのうえに我が子を傷つけでもしたら後悔しきれないではないか――。ところが「私」の視線は色とりどりの帆の中に鷹揚に包まれていく。曇天の大きな河に舞う黒い斑点の奥に、東京が鷹揚に覗いているかのように。やる気か、やる気だ。そんな殺伐とした東京の風景をとらえつつ「私」は華麗に身をひるがえす。拳をかざさない「私」の前には、だからさまざまな人々が現れる。直後には上半身を巧みに操って傘の柄を固定しつつ携帯電話で通話をする女性。案の定転倒した彼女が零した電話の部品を探すのを手伝う「私」。別の日には、映画館に一緒に入ることを乞う見知らぬ女性。また別の日には、トランクルームの下見をしようとシャッターを開けた折、中にかつて落とし込んだ同好会のプリントを認める高校生。さらに別の日には、客のいないテーブルに料理を並べるレストランシェフ。と思いきや、幅の狭い道いっぱいに広がってゆっくり歩く色鮮やかな帽子をかぶった中年女性の群れ。胡乱と毒づく人間にはけっしてなしえない出会いが、「私」のクラウディなスクリーンの上に、いやクラウディなスクリーンだからこそつぎつぎに、澄明に、照射されていく。
この記事の中でご紹介した本
曇天記/都市出版
曇天記
著 者:堀江 敏幸
出版社:都市出版
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