新しきイヴの受難 書評|アンジェラ・カーター(国書刊行会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月2日 / 新聞掲載日:2018年6月1日(第3241号)

新しきイヴの受難 書評
ジェンダーの脱神話化を試みるディストピア小説

新しきイヴの受難
著 者:アンジェラ・カーター
出版社:国書刊行会
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この書は早逝が惜しまれる作家アンジェラ・カーターによって1977年に刊行されたディストピア小説だが、四十年前の作品とは思えない現代的な問題を提起してくれる。

異質な他者を攻撃・排除しようとすると、世界はどうなってしまうのか。男性の強さにせよ、女性の弱さや母性本能にせよ、固定化したジェンダー観がもたらすものは何なのか。男性は奪う性なのか。女性は耐える性なのか。

日本社会では男性の性的放縦は「やんちゃ」と表現され許されてきた。一方で女性が性的被害を訴えれば脅迫文が届く。こんなに固定化したジェンダー観がはびこる日本で、セクハラ問題を起こす人が後を絶たないのも当然だ。だからこそ、この書が発する問いには緊急性がある。

舞台はニューヨーク。荒れ果てた都市では暴力が横行している。人種差別や男女差別に抗議するグループも武装化し、様々なグループがそれぞれ対立して戦闘状態に陥っている。

そんな中イギリスからやってきた主人公のイヴリンは、自己の文化的・性的優位を疑わず、黒い肢体のレイラと支配的な恋愛関係を結ぶ。だが彼女が妊娠するやいなや責任を否定して堕胎を要求、手術の失敗で大出血した彼女を残し逃走する。典型的な卑劣漢だ。

彼にとって男性は奪い取る性、女性は耐える性。男性が能動で女性が受動。だからレイラを捨てても彼の良心は痛まない。むしろ彼女が悪いと思っている。現代日本でも残念ながらよく聞く話だ。

だがここからがカーターの本領発揮だ。イヴリンは武闘派女性グループに捕らえられ、強制的に性転換させられる。このグループは七十年代の一部のフェミニズム、すなわち男性の性を攻撃的なものとして否定する反ポルノ運動などを極端にした寓意像と言えるだろう。確かに強姦はひどい。だがその罰としての去勢は正義なのか。全ての男性を潜在的強姦犯とみなすのはどうなのか。

グループの首長は自らを「マザー」と名乗り、女たちから捧げられた乳房をいくつも移植し神話的母となっている。「マザー」がこのように整形手術の産物なのは、そもそも母性神話が虚構であることを示す仕組みだ。

イヴとなったイヴリンのその後の「受難」は凄絶だ。絶世の美女となったイヴは、自分が女性たちにしてきたことを、今度はされる側となる。性的客体にされるのだ。

ハイライトは「至高の女性」と謳われたハリウッド女優トリステッサとの邂逅だ。誰もが驚いたことに、トリステッサは男性身体を持っていた。男性だからこそ、男性が求める「至高の女性」を演じることができたのだ。(この作品はカーターが日本に数年滞在したのちに書かれており、カーターが歌舞伎や文楽を通じて培った「女性性の虚構」の概念がこの人物に昇華していると考えられる。)男性とは何か、女性とは何か。根本的な問いを読者に突きつける。男性身体を持ち女性として生きてきたトリステッサと、男性から女性へ強制的に性転換させられたイヴが熱烈な恋に落ちたとき、二人の愛は異性愛や同性愛という区別を無意味にする。

物語の最後でイヴは再び「マザー」に出会うが、彼女は醜悪な化粧の残骸と化し、戻る場所ではないことが明らかだ。神話としての「母」ではなく、自分のお腹の子供の親になるためにイヴは旅立つ。彼女の背後に葬られるのは、古臭い対立的ジェンダー観なのである。

カーターの邦訳が少ない中、良質な日本語で書かれた本書は貴重だ。いまだ固定化したジェンダー観が横行し、「こうあるべき」が息苦しい日本社会で、本書は啓示を与えてくれるだろう。(望月節子訳)
この記事の中でご紹介した本
新しきイヴの受難/国書刊行会
新しきイヴの受難
著 者:アンジェラ・カーター
出版社:国書刊行会
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