中山俊一『水銀飛行』(2016) いもうとが尿終えるまで金色の穂波をみてた車のなかで|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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現代短歌むしめがね
2018年6月5日

いもうとが尿終えるまで金色の穂波をみてた車のなかで
中山俊一『水銀飛行』(2016)

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鮮やかな歌でありながら、どこか変態的な印象も拭えないのは、「いもうとの尿」が奇妙にフィーチャーされているからだろうか。家族でドライブにでも出かけて、途中で妹がトイレ休憩に行っている間、止まった車窓から一面の美しい稲穂を眺めていたというシチュエーションだろう。映画監督でもある作者らしい、映像美に満ちた表現だ。

それだけに、「いもうとの尿」の異様な存在感は凄まじい。言うまでもなく、尿と穂波とを「金色」のイメージでつなげているのだ。だから「金色の穂波」を映像美として素直に受け取れない。「尿終えるまで」という表現もヘンだ。「トイレから帰るまで」なんていうふうに濁したりしない。しかも「おしっこ」などではなく「尿」という妙に固い表現。結果として、すぐ近くのトイレで今まさに排尿している妹の姿をありありと想像しようとしている兄という、実に変態的なストーリーを脳内で展開させてしまうハメになる。

しかしこのようなあらぬ妄想をしてしまうときに、読者は作者の罠に見事にハマっている。なにしろこの歌の中で起こっていることは、一面の稲穂が見える風景の中で、ドライブ中の家族がいったんトイレ休憩したというだけなのだ。意図的な語順の操作や、言葉の選び方や、色のイメージの重ね方だけで、読者に妄想させてしまう。これこそまさにレトリックの力であり、歌人の腕である。でもこういう力が悪用されていることも、たまにあるかもね。
2018年6月1日 新聞掲載(第3241号)
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