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2018年6月12日

文体や熱量への抗いがたい魅力 北条裕子「美しい顔」

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わざわざ授賞式を覗きに東京まで赴いたので、群像新人文学賞当選の北条裕子「美しい顔」から評したい。前半は、三・一一の津波被災者による一種のサバルタン・トーク問題が枠組みである。作者は受賞スピーチで、本作はマス・メディアに対する糾弾のような内容になったが、それは当時、被害報道をただ「見る」だけの自分自身に対する憤りの反映で、究極的には「書く」ことに伴う罪意識の現れなのだ、という主旨のことを言っていた。被災者の体験の絶対性を内部から語ろうとしても、聞き手の視線や期待におもねった言葉に取り込まれてしまう。小説中の「私」が饒舌な「私」を徹底して嫌うのは、それがトラウマの表象(=代行)不可能性を逆説的に語りうるわずかな手の一つだからだ。そして母の死体を直視した後の後半は、その喪失体験の克服へと歩み進んでいく――フロイトのいう「喪の作業モーニング」を地でゆく内容になる。つまり、実は批評的枠組みがかっちりとあるために安心して読める、識者受けの良い作品になっている。スピーチでは、文学をほとんど読まない、と言っていたが、「書く」側だけの文学との付き合い方をすると、ベタな問題意識に絡め取られて気が付かない場合も多い。例外はいくらもあるだろうが、私の経験則に基づけば、読まない人は書き続けること(書くべきことを生み続けること)が難しい。誤解なきよう付け加えるが、当選は当然の出来だと思った。同じ語尾を反復して叩き付ける文体や、虚構の「私」に憑依した語りの熱量に抗いがたい魅力がある。読書していた機中で涙したくらい。また、気が動転していく描写を一人称で平気で書き切る蛮勇をみると、小説形式の本来的な自由さを再認させてくれもした。だが、書くことで「憤り」を昇華した今、なお書き続けられるのか、ということである。余計な心配に終わればいい。

ところで、本作では、「私」が被災地を極めて意識的に「歩く」効果的な場面が何度か出てくる(遺体安置所へ向かう夢中の歩行が典型)。奇しくも『すばる』が〈歩く〉特集をしている。私はここ数年、「歩く」と「書く」の密な関係をテーマとした文学研究をしていたので期待したが、残念ながらコンセプト負けした印象の作品がほとんど。それでも一編を選ぶなら、青木淳吾「池袋東口側特集! ひよこ狩りの午後」が優勝。記憶を辿ると、池袋を彷徨う小説に宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」(一九九九)があるが、あれは「失踪前駆症状」を好んで描いた安部公房風の昔懐かしい都市文学の匂いがした。一方の本作は、危機的状況にある妻との関係回復のために行った東武動物公園でひよこにふれ、それを夫婦の気持ちの一致点と考えた「私」が、ひよこのぬいぐるみをホワイトデーのお返しとして池袋の百貨店に買い求める――つまり、歩く云々というよりも買い物をするだけの話。無目的な歩行が散歩の基本だが、ここでは、もろにひよこを探し求めている。だが、それは、妻のメンタルの脆さ、夫婦関係の危うさを繋ぎとめる小さくふわふわした、まがい物であっても手触りのある何かを探し求める行為でもあって……と考えると、文学者が好んだ散歩の効用は、心の治癒あるいは良き智恵の獲得であるから、まさに歩行のエッセンスが捉えられてもいるのだ。滲み出る実力が光る小品。

乗代雄介「生き方の問題」(群像)も、「歩く」ことが効果的に用いられている作品である。幼少期に恋愛感情を抱えた相手である従姉との山登りは、いわば禁断の欲望を成就へと辿り直す「道行」なのだが、内容のレベルでは、それは頂上ピーク一歩手前で頓挫せざるをえない。欲望の挫折をめぐって「書く」ことで成立する近代小説の原風景を描くため、そして同時に、その古典的な「挫折」の結末を乗り越えるためである。そう、本作はそれ自身が多分に小説の体裁を取っている。思春期の男子が従姉妹に肉体的に誘惑される回想の構図も、また何よりも、このSNS全盛の時代に即時には届かない書簡体の形式――きわめて近代小説的なもの――をあえて採用しているのも、いわば王道的な手法の引用・・なのだ。古い書簡体文学が、過去の秘密や心情の告白で満足しがちなところを、その形式を最大限生かして、読まれる・・・・ことを絶えず意識しながら「書く」ことの複雑さと生々しさ、そして、手紙が届けられた後の彼らの未来がどうなるのか、読者に強く想像させる「書く」ことの遂行的な力をこそ主題とする試みとも取れる。無念にも、それ以上の説明を短く言えない。作者の技量は、頭一つ抜けている印象。今後の現代文学の核の部分を担っていくはずである。

「これは手紙ではありません」と書き出される文章(学生の提出課題)をやまに持ってきた谷崎由依「藁の王」(新潮)も、大学の創作科の授業を舞台に読まれる・・・・ことに向けざるをえない「書く」ことの葛藤をみつめる労作。作者の履歴を参照する限り、近畿大の創作コースでの実際の仕事をモデルにしているようで、教員の務めは作家活動を疎かにするはずだが、そのまま「書けない」ということをテーマに重ねて書いてしまう強者ぶりである。それにフィクションとはいえ、創作の指導という絶望に近い営みによくこんなにマジに向き合えるなと不謹慎にも感心する。ところで、学生たちがエメル、マリリ、ささら、といった若干キラキラな名ばかりなのは、関西の土地柄や校風のせいなのか、少なくとも私の勤務先周辺にこの程度でもサブカル的な響きの名はいない。その効果から推し量るに、本作をある種の(擬似的な)ファンタジー風味に仕立てたかったのではないか。フレイザー『金枝篇』に語られる「森の王」殺しの話を元手に、「わたし」の想像がキャンパスの中に作り出した森という幻想のトポスは、いずれ社会に埋没していかざるをえない多くの学生たちが置き棄てていった「投企としての彼らの生」の想念が幽霊となって集う場所。そこを守り、かつ共同体の若返りのために殺されることを待つ「森の王」とは、作家の本体の別言でもあるだろう。そして、そのロマン的な森の幻想性に拮抗しうるのは身体性である。それを一学生の「妊娠」に収斂させる――「書く」代わりに「生む」ことを選ぶ――結末もどうかと思うが、真摯な作品には違いない。

最後に、五五〇枚の大作、平野啓一郎「ある男」(文學界)についても一言。死んだ夫の身元が全く別人のものだったことで発覚する戸籍交換の話は、既に宮部みゆき辺りが扱っていてもおかしくない題材の気がするし、過去を入れ替えた人間のアイデンティティの(松本清張が好んだ)問題、そして、その場合の愛の正統性といったテーマにも既視感があるし、後半は謎解きの面白みは失速するし……色々な物足りなさが残るとはいえ、全般に安定した文章力と娯楽性で楽しめる。散りばめられた社会派な知識は勉強にもなる。しかし、どうしても〈文学の言葉〉の探求といった次元では語る術を持たない種類の作品である。

ミステリーから純文学へと、ちょうど平野とは逆の道を歩んでいる髙村薫の講演原稿が『新潮』に掲載されていて(「小説の現在地とこれから」)、そこに二〇一八年現在、かつてないほどエンタメ小説に純文学は飲み込まれつつあって、理由は、仮想現実世界が進行する今、小説の文体を支える身体性がますます希薄になっているからだと述べられている。純文学の成立条件を作家固有の文体に還元するのは、どうだろう? という気もするが(例えば、文体の翻訳が困難な外国文学の純文学的貢献もある)、今、私たちはエンタメ隆盛に抗するところの純文学の「最後の光芒」を見ているのかもしれない、そして、その奇妙なまぶしさは、それを糧に勢いを増しているエンタメ小説も共々潰えたあとで「新しくやってくる何ものかの予感」があってこそなのだ、という達観には共感できる部分が多い。ちなみに、私は数年前から大学で約二〇年前の小説を扱う演習授業を行っているが、比べると現在の小説はうまさ・・・に相当の向上があるように見える(それがエンタメ要素の浸透のせいなのかどうか)。もしかしたら、一九八〇~九〇年代に一度仕切り直しされた純文学系路線が一つの成熟のサイクルを閉じつつあるだけの可能性もある。思い返せば、本誌一九六一年九月に平野謙が書いた時評で、五〇年代半ばに始まった社会派推理小説などのエンタメ系の勢力拡大をマス・コミュニケーションの発達を理由に認めた辺りで戦後の純文学論争が巻き起こったのだが、構図は全然変わっていないのだ。その時、古い大正期的な純文学は死んで、しかし戦後的なもの(社会派を意識したもの)に中身を変えてなんとか生き延びた。だとすれば、いま経過しつつあるのは、何度目かの純文学の――下手すれば小説が全て純文学を意味する時代への――変容の可能性もあるだろう。何にしても、文学そのものが死ぬわけではない。さしあたって我々は髙村のいう「一抹のワクワク感」を持って待機すればいいのである。
2018年6月8日 新聞掲載(第3242号)
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