カフカのヴィジュアルな語り ありのままに見るという読み方 書評|吉田 眸(風濤社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年6月9日

「語りの視点」からカフカ文学の根本的な特徴に切り込む

カフカのヴィジュアルな語り ありのままに見るという読み方
著 者:吉田 眸
出版社:風濤社
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今日、世界中で新たなカフカ研究書が続々と刊行されている。その数の多さを揶揄することが、アカデミックな場においてさえ、もはや一種のお約束になりつつある。その状況を前に、今さらどんな新しいことを言う余地があるのかとシニカルになる人も少なくない。しかしながら、そんな冷笑的な空気を吹き飛ばすような清新さを感じさせるカフカ論がときおり世に出る。本書、『カフカのヴィジュアルな語り』もまた、そんな一冊である。

著者が打ち出す「ありのままに見る」という方法は、カフカの謎めいたテクストを何かのアレゴリーとして読んでしまう行為を、つまり現に書かれているものの背後に何かしら「深い」意味を見出そうとする営みを慎重に避けようとする姿勢にほかならない。テクストの表層にあるものを注視し、「一見なにげないが、ありきたりではない」(一四頁)ものを掬い取ろうとすること。それが本書の戦略なのだ。

もっとも、表層にこだわる読み方自体は、特にドゥルーズとガタリのカフカ論以降、それなりに市民権を得てきたと言える。ただ、それをどう実践するかは十人十色で、読み手の力量が問われる。その点、本書は「語りの視点」という切り口からカフカ文学の根本的な特徴に切り込んでおり刺激的だ。カフカ作品にあっては語り手と主人公の視点が完全に一致しているがゆえに、読者は語り手=主人公の主観から外に出られないと論じたフリードリヒ・バイスナーの説を出発点に、本書は初期作品『判決』から晩年の『夫婦』までを精読していく。たえず主人公への同一化を読者に強いながら、ときに「身震い」とともに「主人公との同一化から切り離される」(一三二頁)経験を読者に与えもするカフカ文学の基本性格が、その作業を通じて炙り出される。

本書のもう一つの柱をなすのは、メディア論である。もとより、「書く機械」としてのタイプライター(ドイツ語ではSchreibmaschineという女性名詞)に対するカフカの苦手意識に、作家すなわち「書く(男性)主体」の危機を見たフリードリヒ・キットラーを嚆矢として、今日のカフカ研究においてはメディア論的なアプローチが一つの大きな流れを形成している。しかし、そこでは往々にして一種のメディア還元主義が見られる。たとえば「カフカと写真」や「カフカと映画」といったテーマ設定にもとづき、カフカの書いたものを何らかのメディアの特性に強引に結びつけ、それで満足してしまう向きがあるのだ。それに対し、著者はカフカと映画の関係を論じた先駆者の一人だが、カフカ作品の個々のモチーフを同時代の映画の影響などに還元して済ませることはない。本書の姉妹編と言うべき『ドアの映画史』(春風社)では、カフカ作品とその映画化を作中のドアの描写を手がかりに比較することで、そもそも小説にできることは何か、映画にできることは何かという問いに一つの答えが出されていた。徹底して細部にこだわりながら、全体としてカフカをカフカたらしめているものへの目配りを忘れない姿勢は本書においても健在である。著者はカフカを読む際、個々のモチーフの隠喩的な性格を必ずしも否定しない。しかし、記号と意味内容の対応関係を固定的に捉えるのではなく、「喩えがずれてゆく」(一八一頁)局面に着目する。その柔軟な読みからは、一方では同時代の現実に軸足を置きつつ、他方ではその現実からたえず抜け出そうとしていた動的なカフカの姿が立ち上がってくる。
この記事の中でご紹介した本
カフカのヴィジュアルな語り  ありのままに見るという読み方 /風濤社
カフカのヴィジュアルな語り ありのままに見るという読み方
著 者:吉田 眸
出版社:風濤社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年6月8日 新聞掲載(第3242号)
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