その姿の消し方 書評|堀江 敏幸(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
2018年6月9日

堀江 敏幸著 『その姿の消し方』 
東京大学 深田 孝太朗

その姿の消し方
出版社:新潮社
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その姿の消し方(堀江 敏幸)新潮社
その姿の消し方
堀江 敏幸
新潮社
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目的の場所へ一線に続く大通りを歩いていると、地図に示されてない横道が、物欲しげな顔した子供のように、こちらを見つめているのに気付くことがある。――この道の先にはどんな風景が開けているのだろう? ガイドブックをぎゅっと握りしめた「良識」ある旅行者は一瞬の気の迷いをすぐさま払いのける。しかし、『その姿の消し方』の作者、堀江敏幸氏はこの誘惑に素直に身を委ねることができる人なのだと思う。彼の歩くフランスは、エッフェル塔の輝くロマンチックな国ではない。そして、この小説で描かれるのは、意味のわからない詩を絵はがきの裏に残したフランスの無名の男を二十年以上にわたって追い求めるという、まさに常軌を逸した散策なのだ。

私にとっての堀江氏は、その伝説的な読書量が今も語り継がれる大学の先輩である。それも脇目も振らず文学の王道を突き進むのでなく、自分のまだ知らない作家の本を進んで手にしていたようだ。フランス文学の紹介者としての彼の共感は、ユルスナールやラルボーといった、大通りを闊歩することを拒んだ作家に向かう。
「アンドレ・ルーシェを称えるために。未知の詩人を求めて」という副題がフランス語で添えられた『その姿の消し方』でも、作者自身の姿を思わせる語り手は、会計検査官として戦争の苦しい時代を細々と生きた男のたった五篇の詩を読んで思いをめぐらせる。そのうちの一篇を部分的に引いてみよう。「(……)吐く吐かない/吐く息を吸わない吸う息/を吐かないきみの、太古/の風。巨大草食獣の浴び/た風がいまも吹く丘の麓/にいまもなお吹き過ぎる」。初読では意味不明な言葉の連なりでしかないルーシェの詩は、語り手の経験と、また夢想と交錯することで輝き始める。語り手は「吐く」という言葉から苦々しいアルバイトの記憶を甦らせたり、「巨大草食獣」を大戦で投入された戦車や、絵はがきの中の自分に似ている居心地悪そうな座礁鯨に変身させたりしながら、目的地に辿り着くことのない魅惑的な迷走を繰り返す。小説を読み終えたときにもっとルーシェの詩を読んでみたいと思うのは私だけではないだろう。「読む側の神秘」を称揚するこの小説は、テクストの森に分け入るような感覚、まさに読書の喜びを与えてくれる。

しかし、十分に均されていない道を歩くには注意が必要だ。堀江氏はよく転ぶ人らしく(『正弦曲線』には「都内各地で転んできた愚かな個人史」を窺わせる愉快なエッセイが収められている)、実際に『その姿の消し方』の語り手もルーシェ探索の途上で派手につまずく。だが心配する必要はない。無名の詩人を結び目にして紡がれる人々の温かい網が彼を受け止めてくれるから。語り手の奇妙な情熱を受け止める人々との関わりがこの小説の魅力を生み出している。スマホもSNSも出てこないこの小説には、共感に基づいた豊かなコミュニケーションが息づいているのだ。

他者の言葉を自分の懐で温め、灯を分かつようにそれを受け渡す。この小説の教えてくれる読書の喜びは、未知の風景や人々に出会う散策の喜びと近い。そして本屋へ足を伸ばしたくなるはずだ。自分にとってのルーシェを求めて。 
この記事の中でご紹介した本
その姿の消し方/新潮社
その姿の消し方
著 者:堀江 敏幸
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年6月8日 新聞掲載(第3242号)
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