対談=武田砂鉄×貴戸理恵 いいじゃない!!豊かなだらだらコミュニケーション 『日本の気配』(晶文社)、『「コミュ障」の社会学』(青土社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 特集
更新日:2018年6月15日 / 新聞掲載日:2018年6月15日(第3243号)

対談=武田砂鉄×貴戸理恵
いいじゃない!!豊かなだらだらコミュニケーション
『日本の気配』(晶文社)、『「コミュ障」の社会学』(青土社)刊行を機に

このエントリーをはてなブックマークに追加
第6回
=生きづらい現実、社会問題と闘う言葉=

貴戸 
 私自身は、社会学の言葉や、フェミニズムの言葉が生きづらかった自分の力になったのですが、今の学生にとっては、どんな言葉が、彼らが浸っている現実の息苦しさ、社会問題と、闘う力になれるのだろうか、と心もとなさを抱くことがあります。彼らは距離を取ることも上手で、「うん、そうだよね」「知ってる、知ってる」と言って、知識と体験を直には結びつけない。

私には、知ることで世界が違って見えるような出会いがあったんですよね。例えば、「物語論」に初めて触れたとき。現実がまずあって、それを言葉にして語るというのではなく、語りの方が先にあって、それぞれから見た現実というものが、事後的に構成されてくるのだと。現実をどのように語るかということが、状況の定義においては大切なことで、Aさんが「仲良く遊んでいた」と語る現象を、Bさんは「いじめられていた」と思うかもしれない。その状況を定義する権力を、誰が持っているのか、も重要な観点です。それはただの知識ではなくて、知ることによって社会を体験するやり方が変わり、自分が変わることでした。

例えばセクハラの現状においては、状況を定義する力を有しているのは、今のところ男性であることが多い。そういうことを思い合わせると、問われるべきは、事実として何があったのかという側面だけでなく、誰が状況を定義する権力を持っているのか、という力関係だとも言える。
武田 
 普段、様々なジャンルの原稿を書いていますが、客観的に眺めてみると、どれも多様性についてばかり書いている。芸能人であろうが、政局についてだろうが、結婚観についてだろうが。複数の角度があります、立場があります、限定しちゃいけません、そう記すことだけが目的なのではないかと思うぐらい。

自分がやるべきなのは、個々を覆っている風船に、プツッと針を刺して、中のどんよりした空気を解放することだと思っています。ただ、風船の中にいた人たちが、「あぁ、向こうには別の風船が見えますね」くらいの感じで、今そこで解放されたと思ってくれないこともある。そんな無力感におそわれることもあります。
貴戸 
 一元化と多様化は、奇妙に入り組んで進んでいるような印象があります。専門家と素人の境界は揺らいで、様々な言葉がSNSでは一元的に流れ出ている。でもそれにも関わらず、自分の興味関心を共有する人とだけつながっていく。自分の言葉が、「いいね!」と受け取られる空間でしか、コミュニケーションを取らないから、他の世界と結びついていけない。現代は、情報が膨大だから、どこかで切り捨てざるを得ないということを言い訳に、タコツボ化していく。反省もかねて、そう思います。
武田 
 アカデミックな言葉を、もっと現実にぶつけてほしい。編集者時代、名古屋大学の内田良准教授の『柔道事故』という本を担当しました。三〇年間で約一二〇人が柔道事故で亡くなっている事実を分析した一冊です。内田さんに聞けば、スポーツ事故を研究する学者の中ではその事実自体は知られていた。それを内田さんが外に向けて発信することで大きな反響を呼んだ。その後、内田さんが取り組んだ、巨大な組体操による事故が相次いでいる事案の分析も、話題になりました。結果的に多くの学校で制限される方向に進んだ。アカデミズムの世界では当たり前とされていることを、社会に向けて語りかけたら、問題が解決することは他にもあるのではないかと思います。それをなぜやらないのか。頭のいい人たちが、頭のいい人たち同士で、頭のいい会話ばかり続けているのはもったいない。感じた問い、導かれた回答を、意識的に社会に吐き出して欲しい。
=ズレをズレのままに希望は子どもたち=

日本の気配(武田 砂鉄)晶文社
日本の気配
武田 砂鉄
晶文社
  • オンライン書店で買う
貴戸 
 おっしゃる通りです。最近私が憤ったのは、小学校の道徳なのですが。道徳教育が二〇一八年から教科化されましたが、その教科書は忖度社会奨励、秩序を守るといったエピソードが満載なんです。

小学校一年生の道徳の教科書には「かぼちゃのつる」という話があります。かぼちゃがつるを伸ばしていくところに、犬や蜜蜂がやってきて「かぼちゃさん、そっちにつるを伸ばすとみんなの迷惑になっちゃうよ」と言うんです。でもかぼちゃは、そんなの構うもんか、とつるを伸ばして、畑から道路にはみ出して、トラックに轢かれてしまう。

えっ! と思いました。植物は太陽に向かって伸びるのが自然の摂理なのに、みんなの迷惑になるからやめなよって。そんなふうに、個性を殺そうとする寓話を、教科書に入れ込んでくるなんて。

まずは、自分にはこういう要求や希望があるのだと提示した上で、他者の希望とバッティングしたときに、ルールが作られ、話し合いがもたれる。「自分→他者→ルール」、そういう順番で語られるべきことだと思うんです。それがルールに人が合わせるということになってしまっている。この話は全ての学校教科書に採択されています。

他にも、「公正公平・正義」という項目が、道徳の学習指導要領にあるんですね。「一人でいる子を、仲間に入れてあげよう」とか、好きな友だちとだけではなく、誰とでも公平に遊びましょうとか、バスで隣の席になったのが好きな子ではなくても、「えー、○○ちゃんがよかった」というような感想を持つのはやめましょうとか。自然な感情を消そうとしているし、一人でいる子は寂しいに違いないから誘ってあげよう、と決めつけている。それが正しい振る舞いとして、教科書に載っているんです。
武田 
 そういう角度で多様性が語られて欲しくない。多様性とは、教室の隅で一人で絵を書いている子を、そのままにしておくことですよね。それを、ああいう人もこういう人もいるけれど、ズレは解消しましょう、では人が痛みます。そもそも人と人の間には、ズレがある。そのズレを互いに確認しながら付き合っていくものです。それを全て統一し、皆でスクラムを組みましょうというのは、もっとも非道徳的な気がします。

点数が付くわけではないにしろ、道徳が教科化されれば、子どもたちはどういう振る舞いをすれば、先生が評価してくれるかを察知するでしょう。心配です。
貴戸 
 空気を読むまでもなく、教科書に書いてあることが、正解の振る舞い方だと示されるわけですからね。教育に携わる者として、変えるために発言したいです。
武田 
 現場に反映される回路を作っていただかなくては、と思います。

日大アメフト部を見ていて、希望を持てたのは、現役の選手のみでした。柳瀬しかり、福田しかり、今ほど、エリートの愚かさが浮き彫りになったタイミングはない。組織の上に行けば行くほど、愚鈍になっていく。逆に言えば、二十歳の選手、学生たち、子どもたちに希望がある、そう感じた人も多いはず。
貴戸 
 武田さんの文章に全体として流れているのは、無批判性への批判ですよね。情報がこれだけ多岐にわたってくると、ある程度流さなければ、サバイブできないことは確かで、流すという習性を、生きる技として私たちは刷り込まれている。でも、今より少しだけ、受け流すザルの目を細かくすることはできるはず。そして日大の宮川くんのように、一人ひとりが自分の言葉で語ることが、この国の気配を変えていくのかもしれません。(おわり)
1 2 3 4 5
この記事の中でご紹介した本
「コミュ障」の社会学/青土社
「コミュ障」の社会学
著 者:貴戸 理恵
出版社:青土社
以下のオンライン書店でご購入できます
日本の気配/晶文社
日本の気配
著 者:武田 砂鉄
出版社:晶文社
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
武田 砂鉄 氏の関連記事
読書人紙面掲載 特集のその他の記事
読書人紙面掲載 特集をもっと見る >
学問・人文 > 社会学関連記事
社会学の関連記事をもっと見る >