日の出 書評|佐川 光晴(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月16日 / 新聞掲載日:2018年6月15日(第3243号)

日の出 書評
凜とした姿勢で「人間らしく生きる」という希望を持とうと

日の出
著 者:佐川 光晴
出版社:集英社
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日の出(佐川 光晴)集英社
日の出
佐川 光晴
集英社
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なぜ、戦争をやめようとしないのか。朝鮮・韓国人や中国人を敵対視し、差別感を抱く原因はなにか。この問いを携えて生きる二人の主人公が、物語を支えている。

国民皆兵制度があった明治の末は国を挙げて勇ましさを誇っていたが、十三歳の清作は戦争の徴兵から逃れるために、故郷北陸の家を飛びだし、先輩の手引きで、鍛冶職人として岡山から九州、川崎、横浜へと移りながら隠れて過ごす。他方、その清作を曽祖父にもつ現代女子大生あさひは教員免許取得のために猛勉強中であった。時をへだてた両者に共通するのが、差別の風潮にあってもあらためて明日の「日の出」=希望を見出そうとする姿勢である。たとえば清作は九州で朝鮮人差別の地獄に等しい炭鉱にたいして爆弾を仕掛けたグループとともに東へ逃亡し、関東大震災のときの川崎の自警団に囲まれ一緒にいた朝鮮人の女が命を落とすが、その悲劇にめげず、鍛冶職人として横浜で結婚し、子が誕生する。他方あさひは、中学生のとき転校してきた在日コリアンが直面している困難を訴えた挨拶を聞いて印象に残る。婚約した大学講師の男の姉が在日コリアン三世と婚約し自分たちの結婚へのブレーキになっていたが、乗り越える。教師になると、教育界での差別に立ち向かっていく。清作の生涯が激動し波乱万丈であったのにたいし、あさひはさざ波程度の微妙な動きしかないが、しかし、差別の空気自体はなに一つ変わっていない。遠い明治から現在まで東アジアの空を暗く覆っている殺伐とした差別の空気にたいし、二人とも〓とした姿勢で「人間らしく生きる」という希望をもとうとしているのである。

焦点は、この現実にたいして小説表現はなにをしようとしているか、である。この点で私が高い関心をもった箇所は、浪曲の曲師であるあさひの叔母の唸る姿や、清作の鍛冶職人としての労働を浮き彫りにした箇所である。浪曲は大衆芸術として日本近代に生きる人々の喜怒哀楽に真正面から応えてきた。義理と人情や、啖呵をきる、といった、なまの感情を抑制し単純化したパターンのなかに大衆の深い哀しみをうかがうことができるのではないか。また清作の鍛冶職人としての仕事ぶりについてはだれもが賛嘆しているから、そうとうな腕前らしい。清作は「鍛冶は、一日に何万回も金槌を打ちます。しかし、二度続けて同じ槌音が鳴ることはありません。……(略)……金槌のひと打ちひと打ちから、たくさんのことを感じとっているのです」と言うが、では、具体的にどんなことを感じとっていたのか。だが、その答えを探っていっても、言語表現上ではなかなか明らかになることはないのではないか。ならば、言語ではなく、鉄を叩く単調な音でしか表現ができていない、ということになるのであろうか。そうなのかもしれない。それしかないのだろう。けれども、言語の絶えたその音が、生の悲痛ななにかを鋭く訴えかけている、とも考えられないか。つまり、たとえ小説という言語表現がこの現実にたいしてなにもできずもう不可能だと底を突いていたとしても、その場の空気が戦争の残虐さに肯定的になっていてもう人間について考える時空ではなくなっていたとしても、言葉なき音の一つ一つが人間の生について考えさせるのである。いま、この音は、なんなのか、ひょっとして現実を軋ませている音なのではないか、軋んでいる現実? とすれば、いま、われわれの、この、現実とは、いったいなんのことなのか。小説形式のはたすべき道とは、言語表現にとどまらず、それ以外の、他の多くの表現へも無限に広がっていっているのにちがいない。
この記事の中でご紹介した本
日の出/集英社
日の出
著 者:佐川 光晴
出版社:集英社
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