ぼくとネクタイさん 書評|ミレーナ=美智子・フラッシャール(郁文堂)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月16日 / 新聞掲載日:2018年6月15日(第3243号)

「われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだ」

ぼくとネクタイさん
著 者:ミレーナ=美智子・フラッシャール
出版社:郁文堂
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作者について何も知らないままに読みたい小説だ。舞台は日本のどこかの都市、そこで起きたある出会いと別れの物語。そして物語は、孤独を出発点として始まり、人に孤独はありえないという認識をめざして進む。そのプロセスが、いくつかの強く詩的な文がちりばめられた、しずかな文体で綴られる。

主要登場人物はふたりの男だ。二年間のひきこもり生活からようやく外にむかい始めた青年タグチ・ヒロが主人公。彼が出会うのは、定年を目前にして会社を首になったことを妻にいえず、毎日出勤のふりを続けている元サラリーマンの「ネクタイさん」だ。行き場所のない無為のふたりは、毎日公園のベンチで長い時間を過ごすうちに相手の存在に気づき、言葉を交わすようになる。生じるのはかすかな共感の糸。存在するとは知覚されることという古来の言葉をなぞるかのように、ネクタイさんが気づいてくれたことにより「ぼく」は殻から抜け出す。話をするようになったふたりは、それぞれの過去を、互いにむかって物語りはじめる。

ネクタイさんの名前はオオハラ・テツ。料理上手な妻キョウコが作ってくれるお弁当を公園で食べる以外には、まるでからっぽの日々。雨が降れば決まったジャズ喫茶ですごす。どうも要領の悪い人で、会社を辞めたのも文字どおりのつまずきのせいだが、そのようすに何か大きな子どもを思わせるものがある。彼の話からぼくが知るのは、たとえばかなりエクセントリックな妻とオオハラさんの馴れ初め、障害をもって生まれ赤ちゃんのまま亡くなった夫妻の子ツヨシ、そしてオオハラさんが少年時代にピアノを教わっていたワタナベ先生のこと。一方、彼にむかってぼくが話したのは、ぼくにとって大きな意味をもつ過去の友人たち、クマモト・アキラ、コバヤシ・タケシ、ミヤジマ・ユキコのことだ。少年少女それぞれの才能と悲劇。ある意味では、こうした友人たちの悲劇を内面化することで、ぼくはひきこもりになったともいえるだろう。

われわれは話を聞かないかぎり、ひとりひとりの人間の過去に何が潜んでいるのかを知らない。知りようがない。こうした過去への物語的な旅によってわれわれが直面するのは、ネクタイさんとぼくの悲しみの大きさだが、同時にかれらふたりが特異な友情を通じて何かを乗り越えつつあることも感じられる。希望への転換。ある段階で、ネクタイさんはプラットホームの人ごみで思ったこととして、こういう。「ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか」「われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだ」

小説はこの特異な友情の結末を見届けた上で、ぼくが新たに得た光とともに終わる。そのときまでには、ぼくはネクタイさんがじつは自分にとっての「先生」だったことも、はっきりと意識している。丁寧に書かれた佳作だと思う。作者は日本人の母親をもつオーストリアの作家で執筆言語はドイツ語。現在までに四作の長編小説を発表しているそうだ。(関口裕昭訳)
この記事の中でご紹介した本
ぼくとネクタイさん/郁文堂
ぼくとネクタイさん
著 者:ミレーナ=美智子・フラッシャール
出版社:郁文堂
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