悲しくてもユーモアを―文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝 書評|天瀬 裕康(論創社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年6月14日

逆境と闘いながら生きてゆく「イヌ」の生涯

悲しくてもユーモアを―文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝
著 者:天瀬 裕康
出版社:論創社
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乾信一郎は「生きて」いる作家である。生きて、というのは、書店で新刊本として容易にその著作を入手できる、という意味だ。コアな推理小説ファンでなくとも、意識せず乾による翻訳でコナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エラリー・クイーン等を読んだことがあるかもしれない。キューブリックによって映画化されたアンソニー・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』の訳者でもある。乾の仕事は翻訳にとどまらず、雑誌『新青年』の編集長として敏腕をふるい、自らも多数の推理小説を発表した。

本書はその「自伝的な評伝」である。と著者の天瀬裕康氏はいう、乾は晩年「ひとりぼっち」と題した自伝の執筆を志していたが成就せずに終わった。天瀬氏は、作家の試みを引き継ぐかのように、「彼がなにを考え、どのように生きた」のか、等身大の「文芸人」乾信一郎の軌跡を紡ぎ出してゆく。

乾は明治三十九年、アメリカシアトルで開拓移民の家の長男として生まれた。本名は上塚貞雄。開拓地の荒涼とした景色のなか、遊びに連れ立つ友も少なく、一匹の「黒じまのトラ猫」を愛して過ごした。六歳の時、日本で教育を受けるため、母につれられ郷里の熊本に移り住む。そこで「アメリカ帰りの異風者」としてイジメにあった。幼年期の孤独と少年期の疎外感から、乾は動物や虫に心を通わせるようになる。それが作家乾信一郎の根底を形作っていると天瀬氏は考える。

乾の文筆家人生は、昭和三年、当時『新青年』の編集長をつとめていた横溝正史に送った翻訳原稿が評価され、同誌に掲載されたことにはじまる。昭和五年に博文館『新青年』編集部に入社、やがては編集長までのぼりつめる。順風満帆にみえた人生に影をさしたのは戦争であった。乾は、軍国主義国家に追従を決めた博文館に反発して辞職。以降、執筆の仕事は激減、終戦近くには特別水兵として招集された。終戦となり、青山の自宅を含め焼け跡となった東京に戻った乾は、カストリ雑誌から、地方の児童雑誌、翻訳、ラジオドラマの台本まで精力的な執筆をつづける。

平成十二年、乾は九十六の高寿をもって世を去った。墓所は、文豪たちの墓が並ぶ冨士霊園内の文学碑公苑。墓碑には作家の名と共にその代表作が記される。乾信一郎の墓碑に刻まれた作品は、翻訳でも小説でもなく、放送台本の「コロの物語」であった。焼け跡の東京でバタ屋(廃品回収業)のおじさんに拾われた子犬が、万難を乗り越えて生きてゆく物語だ。乾は、動物を主人公にしたユーモア小説の名手であったが、なかでもネコとイヌには特別な思い入れがあった。天瀬氏は、作中のイヌに乾が自己を投影していたと指摘する。「ネコはペットだが、イヌは自分自身だからだ。逆境の子犬がイジメに負けないで、健気に生きてゆく……」。

大正モダニズム残照の自由な空気を経て、戦中の軍部の重苦しい影のもと、戦後GHQの統制のなか、焼け跡で生き抜き、時代ごとに生起する悲しみのなかでユーモアを灯した作品を書き抜いた乾の人生は、逆境と闘いながら生きてゆく「イヌ」の生涯であったのかもしれない。
この記事の中でご紹介した本
悲しくてもユーモアを―文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝 /論創社
悲しくてもユーモアを―文芸人・乾信一郎の自伝的な評伝
著 者:天瀬 裕康
出版社:論創社
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年1月1日 新聞掲載(第3121号)
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