往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき 書評|若松 英輔(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月25日 / 新聞掲載日:2016年1月15日(第3123号)

三十三通の手紙が届ける言葉 
「言葉」を武器に戦い続けた二人の男の声

往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき
著 者:若松 英輔、和合 亮一
出版社:岩波書店
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二人の男の往復書簡が本になった。一人は批評家の若松英輔。もう一人は詩人の和合亮一。共に一九六八年生まれだ。二人はお互いの存在を知ってはいるが面識はない。手がかりになるのは二冊の本である。一つは『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』という若松英輔の評論集。二〇一〇年に妻を乳がんでなくし、翌年東日本大震災を経験し「不可視な隣人である死者をめぐって文章を書くようになった」という若松の、悲しみと死者についての深い洞察がつまった本だ。もう一つは和合亮一の『詩の礫』。これは震災後福島の自宅にとどまり、見えない放射能と繰り返す余震におびえながら、和合がツイッターで発し続けた言葉と詩の記録である。若松はそれを追っていたという。

手紙はとくにテーマを決めずにおずおずと始まる。最初は涙について。震災後涙を流すことが多くなったと和合が書きそれに若松が応える。両者の体験をもとに現実世界からあるいは活字の世界から、彼らがつかみとった真実が静かにつづられる。そのうちテーマは絞られてゆく。悲しみとは何か。死者とは誰か。詩とは何か。文学の使命とは何か。震災からの復興とはいったい何なのか。二人は行きつ戻りつしながら、震災の大きな傷がどうすれば癒されるのか、あるいは癒されないのかを確かめていく。

若松は言う。「人は、悲しみによって、もっとも強く、また、確かに通い合う」のだと。死者に出会ったときの深い悲しみが誰の心にもあるのだと気づけば世界は一変すると。それを和合は被災者同士で涙を流すことで体感している。涙を抑圧して「いつまでも泣いていてはいけない」と励ます我々日本人の「がんばろう東北」というようなたやすい言葉に二人は抗う。しかし人をつなぐのが不可避に胸にわきあがってくる悲しみであるとは、なんと救いのある教えだろう。

また二人は当然のように詩について語る。和合は「詩の礫」のフォロワーの存在を通じ、詩も「共に感じてくれる誰かの存在があって初めて、独りよがりではない心の現場性」が生まれることを実感する。そして現代詩には「『万人』に消費されない言葉を追い求めるあまり、ディスコミュニケーションというキーワードを頑なに信じ込んでいる雰囲気」があると言う。若松は和合の「詩の礫」について、「究極的にはいつも、ひとりの人に宛てられた詩神からの手紙であるかのように詩を書く。あの日以来詩は、あなたの内心の表現の手段ではなく、むしろ、あなたが詩に用いられている。詩人とは、生ける言葉の通路となることである」と言う。さらに若松は「現代の文学者たちはいつから、自らの思いを作品化するのに忙しく、万人の中に『詩人』がいることを言わなくなった」のかと問いかける。私は一文一文に吸い寄せられ激しくうなずく。

最後に二〇一五年の三月十一日を迎え、日本が追いかける被災地の復興に違和を感じながら、三十三通の手紙のやりとりは終わる。手紙という形式をとったことで、語りかける言葉たちが読者の胸にいきいきとしなやかに届く。若松の言葉を借りれば、彼らは自分の言いたいことのために言葉を使うのではなく、言葉を届けるために自分をつかっているのだ。死をすべての日本人が身近に感じた東日本大震災から四年。震災とともに傷つき試された「言葉」を武器に、見えないゆえに語られざるもののため戦い続けてきた二人の男の声に耳を傾ける。そこから始めることを、あの日から何をすればよかったのかわからないあなたに勧めたい。
この記事の中でご紹介した本
往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき/岩波書店
往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき
著 者:若松 英輔、和合 亮一
出版社:岩波書店
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