既成概念の転倒を狙う松田青子 書くべきものを持っていると思わせる高橋 有機子|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年10月7日 / 新聞掲載日:2016年10月7日(第3159号)

既成概念の転倒を狙う松田青子
書くべきものを持っていると思わせる高橋 有機子

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今月は文芸誌が一冊、どうしても本棚に見当たらないのだが、紛失したわけでもないらしい。ある人の話によると、以前から何かと思い悩んでいたようすであったが、ついに自分探しの過去への旅に出てしまったということだ。まあたまにはいいだろう。なあに、一か月もすれば我に返り、新しい作品の誕生に立ち合い、読者に届けるという本来の使命に立ち戻ってくれるものと思っている。

松田青子の『ワイルドフラワーの見えない一年』(河出書房新社)はたった一ページの作品から最長でも十四ページという短編を五十本収録した。作品の多くは寓話風で、しばしばSF的な設定によって、既成概念を転倒させることを狙っている。星新一が手掛けたショートショートの系統に属するものと言っていいだろう。

作品集を貫く大きな柱はフェミニズムだ。最長の作品「女が死ぬ」は映画や小説などのフィクションの中で女性の死、妊娠、流産などが男性主人公を動かすための小道具として使われがちであることを指摘した作品。「男性ならではの感性」は女性作家や女性ライターを持ち上げるときに使われがちな「女性ならではの感性」という常套句をひっくり返した。女性作家とライターのありがちな成功物語を全て男性に置き換え、ジェンダーによるステロタイプがキャリアを左右するバカバカしさを印象付けている。また、「少年という名前のメカ」は、フィクションに登場する典型的な少年の行動がいかに身勝手で周囲を傷つけるものであるかを浮き彫りにし、少年性にまつわる神話を破壊しようとしている。

斉藤斎藤の歌集『人の道、死ぬと町』(短歌研究社)は、原発などの社会問題をテーマに取り上げ、自分から見える世界を読むという「短歌の私性(わたくしせい)」を乗り越える実験を行っている。斉藤斎藤は二〇〇四年の第一歌集『渡辺のわたし』(新装版、港の人)でも「このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか」「ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしているわたくし」など、「わたし」が分裂したり、多くのモノや人に「わたし」が宿ったりするような感覚を歌にしていた。

二〇〇四年から二〇一五年までの作品が収録された『人の道、死ぬと町』では、「わたし」がどのように他者の死を理解することができるかが大きな課題として提起されている。そうした中で「私性」を離れた歴史ドキュメンタリー的な手法が導入され、広島の原爆にまつわる記憶や、その後日本が原発の導入に踏み切る過程で飛び交った言葉を短歌として再構成したり、個々にまつわる背景の資料が「詞書」として置かれたりしている。

また二〇〇九年に亡くなった歌人笹井宏之の死に関する作品が「棺、『棺』」と題した連作として収められている。斉藤斎藤自身の作品だけでなく笹井やその他の歌人の作品や笹井に関する評論的な記述なども収められ、興味深い試みである。「棺、『棺』」は他者の死を歌う実践であると同時に、笹井があらゆるモノに憑依したかのような歌を詠む、「なんにでも化ける」歌人であったことから、笹井について考え、歌うこと自体が「短歌の私性」についての考察となっている。

小説の世界では、揺るぎない「わたし」への疑問が移人称など様々な表現方法となって現れているが、詩歌の世界でも同じようなことが表現上の課題となっていることは興味深い。まさに時代性と言ってよいだろう。

高橋有機子の「似非りんご味」(『新潮』十月号)は中学二年の「僕」とそのクラスメートである正純の関係を描く。正純は発達障害と思しく、生活を送るうえで問題を抱えている。「僕」は正純の庇護者を買って出ているが、その背後には正純の母・由津里への恋情があった。「僕」の母親と意地悪な父方の祖母、正純と由津里の母子家庭など登場人物とその関係が厚みをもって描かれ、この書き手が、困難と共に生きている人たちへの深い理解と共感を備えていることが感じられる。

中学二年生には思えない「僕」の語彙の豊かさなど、小説として気にかかるところも多いが、新潮新人賞受賞作の「恐竜たちは夏に祈る」(『新潮』二〇一五年十一月号)からは技術的に大きな進歩が見られる。何よりもこの作家は、書くべきものを持っていると思わせるものがあり、今後も粘り強く創作を続けていくことを期待したい。

宮内悠介の「カブールの園」(『文學界』十月号)はカリフォルニアの日系三世の女性が人種差別的ないじめを受けていた少女時代の思い出、母親との共依存的な関係、戦時中に強制収容された祖父母のことなどを通じ、日系人としてのアイデンティティを見つめなおす物語。主人公がシリコンバレーのベンチャーに加わっていたり、日系一世の「伝承のない」日本語文学のことなど興味深い要素が多いのだが、それらが有機的に結びついているというよりは、情報として作品に盛り込んで作り上げた印象をぬぐえないため、読んでいても動かされることがない。

むしろキャッチーな要素をちりばめることで、筆者が自分とアメリカの関係について何かを隠そうとしているような気がしてしまう。もっと不器用で地味でも、よほど真実味のある書き方があるのではないか。

二瓶哲也の「酩酊のあいまに」(『すばる』十月号)。弁当屋のアルバイトで日銭を稼ぎ、ひたすら飲酒に明け暮れる中年男性。かつて仕事で知り合った高僧との関係、その不気味な弟子との出会いに、郷里で過ごした高校時代の記憶を交えて書いた私小説である。自らの愚行を突き放す冷静な目が可能にする安定した読み心地と、全編を覆う負け犬根性の甘美な味わいを堪能した。

『群像』十月号の創作合評で乗代雄介の「本物の読書家」(『群像』九月号)が取り上げられているが、評者たちには最後の16章が読めていない。16章では15章までの一人称「わたし」である間氷に入れ替わり、田上が「わたし」となるという叙述トリックが用いられている。そして実はこの小説の15章までも、書いているのは田上であるという設定で、15章までは、文学探偵とでもいうべき存在である田上が自分がかかわった一件について書いた報告書なのである。ただそこで田上は、間氷を視点人物「わたし」として書くという遊びをしている。

前回の時評で「本物の読書家」を取り上げた際、私はこの叙述トリックの種明かしは自明のものと思っていたが、未読の読者の楽しみを奪うべきではないと思ったため、最後にどんでん返しがあることを暗示するにとどめた。だが、今回創作合評を読んで、叙述トリックが必ずしも自明のものとして共有されていないことに気づいた。このトリックは本作の構造的な基盤である。それが理解されないまま論じられては作品の評価が歪んでしまうと思い、こうして書いておくことにした。
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