〈華族爵位〉請願人名辞典 書評|松田 敬之(吉川弘文館)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月1日 / 新聞掲載日:2016年1月29日(第3125号)

◇奇想の辞典◇ 華族身分を獲得しようとした人々

〈華族爵位〉請願人名辞典
著 者:松田 敬之
出版社:吉川弘文館
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本文八〇〇頁を超える辞典であり、パラパラと頁を繰ることから始めてみる。秋山好古の項がある。『坂の上の雲』で知られる、日露戦争で騎兵を率いロシアと闘った人物である。のちに陸軍大将となり、教育総監を務めたが、爵位は貰っていなかった。本書は『〈華族爵位〉請願人名辞典』であり、華族人名辞典ではない。華族身分を獲得しようとして自薦・他薦の文書の残った人物の辞典である。爵位のない秋山好古は華族人名辞典ならば載らないが、昭和三(一九二八)年に陸軍大臣が総理大臣に爵位授与を内申したから、本書には掲載される。奇想の辞典である。

著者は近世から近代にかけての身分移動に関心のある研究者であり、江戸時代の公家が近代の華族となることで起こった事件を追求していくうちに、宮内省の公文書「授爵録」に邂逅したのだろう。その多彩なおもしろさに、本書を編んだにちがいない。

王国には普通世襲貴族が必要である。王制をささえる固定的支持層である。戦前の日本では華族制度である。華族は、明治二(一八六九)年に公家と大名を合わせて設置された。憲法が構想されたとき、この華族は上院の選出母体となりうるか心許なかった。伊藤博文は、勲功者を補充することで華族を強化することにした。明治一七年の華族制度の創出である。こうして華族への新規参入が明白に可能となり、自薦・他薦の文書が堆積する。

本書冒頭の解題では、華族制度の変遷と請願の様子が五期に分けて概観されている。

明治二年の華族設置までの第一期は、堂上や諸侯(大名)という家格の獲得が目指される。設置後の第二期では南朝の功臣の末裔が請願に加わる。

明治一七年の華族制度創設後、すなわち新規参入可能後の第三期になって請願が増加する。明治三〇年代は地域の支配者であった諸侯の一門や万石家老への叙爵許可が目立つが、資産の有ることが必要条件であった。公家出身者の資産維持に苦心した反省があったのだろう。許可の増加は、この時期各地域の偉人への贈位が増加することとも関連があろう。一方新規参入の増加は、方針を抑制に転じさせた。日露戦争の軍功では、中将が叙爵の必要条件となる。また明治一七年の叙爵内規に加え、明治三三年の新基準も紹介されている。

大正の第四期、昭和の第五期とますます新規叙爵は抑制される。その方針が伝わるのであろう、昭和期は大正期より請願は少なくなってくる。

このような基準の変遷があって、日露戦争時少将であった秋山は叙爵に漏れてしまう。参謀次長の少将長岡外史も叙爵されず、爵位のないまま生涯を終えることになった。

秋山の申請書には、「優勢なる露国騎兵団を制圧し…驍名一世に高し」とある。叙爵の方針・傾向は解題通りであったとしても、それぞれの人物・応援者はさまざまに理由を付けて請願する。方針を打ち破ろうとする理屈が何であったのか、晴れて爵位を貰った理由は何であったのか。

秋山好古を続ければ、前任の教育総監の大谷喜久蔵は、秋山と大正五(一九一六)年の同月日に陸軍大将進級であるのに、浦塩派遣軍司令官の功を以て大正九年男爵となっている。大正と昭和の差であろうか。浦塩派遣軍司令官の功は一世に高い「驍名」を上回ったのだろうか。空想は膨らみ、他の人物で確認しようと頁を繰ることになる。

ところで、明治一七年の華族制度創出の際に、宮中グループへの配慮があったといわれる。佐佐木高行への伯爵授与などである。しかし請願の記録はないらしく、本辞典の項目に佐佐木はない。その一方で川村純義の嗣子鉄太〓の項では、佐佐木が大正天皇の御養育掛であったことを先例として昭和天皇の御養育掛であった純義の功を挙げて陞爵(爵位の上昇)申請の理由とする。ここには佐佐木が出てくる。やはり奇想の辞典である。
この記事の中でご紹介した本
〈華族爵位〉請願人名辞典/吉川弘文館
〈華族爵位〉請願人名辞典
著 者:松田 敬之
出版社:吉川弘文館
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