背中の地図 金時鐘詩集 書評|金 時鐘(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年6月23日 / 新聞掲載日:2018年6月22日(第3244号)

「ひっくり返ってしまった」
状態から紡がれていく詩句

背中の地図 金時鐘詩集
著 者:金 時鐘
出版社:河出書房新社
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震災から七年が経って、何を書くべきなのか、語るべきなのか。今だからこそ、伝えなくはいけないことがある。歳月を経て私たちの心の中に芽吹き、育っているもの。はるか飛来して、土中で芽を出している物言わぬ心の種子のようなもの。帰還が今なお許されていない地域へと出かけると、無人の家屋の庭に無造作に植生している草木の影がある。あたかも私たちへの問いを映し出しているかのように伸びている姿がある。

歳月を経て投げかけているもの。そのまま詩を書くとは何かという問いかけであるかのように思えてしまう。金時鐘は新しい詩集の中でこのように述べる。「観念的な思念の言語、他者とはあくまでも兼ね合うことがない、至ってワタクシ的な自己の内部言語、そのような詩の書かれるいわれが根底からひっくり返ってしまった、と実感した」。ここにあるような「ひっくり返ってしまった」状態から何を始めれば良いのか。

年月の中で感じてきた、育った何かが私たちの感情にある。それを言いあてることはまだ出来ない。しかしそれは声にしてしまうと消えてしまう〈何か〉でもあるのかもしれない。言葉にならないものを言葉で書かなくてはならない詩作の理由がここにあると詩人は伝えたいのだと読み終えて感じた。現代詩の書き手の大半は「ひっくり返ってしまった」ことに気づいていない感じがある。金は震災当時に直感したことを基に、年月の中でずっと詩人たちに警鐘を鳴らしてきた。「淡い春が年の狭間で震えているということだけだ」。

「いく組かの若者たちは反対ホームで/フクシマを離れる列車を待っていた。/彼らもまた取り残した何かをかかえて/ふるさとを後に都会へ行くのだ。/心に巣食う 飢えのようにだ」。それぞれの記されている詩に宿っているのは正にこの風景の若者たちに感じた〈飢え〉なのではあるまいか。詩人が体験した災いの後の真実の感覚であるだろう。この新しい詩集を読み耽るうちにこの飢餓感の本質が迫って来るかのように思われる。

それはこのように背中や死角を見つめつづけることなのかもしれない。「大津波はまさにその裏のうらを衝いて/弓なり状の本州の背を襲ったのだ」。「その私がその瞬間、まざまざと/自分の背中に亀裂が走るのを覚えたのだ」。ここに詩人の肉体感覚が見え隠れしているかのようだ。「当の日本人にも多分/人に言われてからしか振り返れないところがあるのだ/原発建屋が吹っ飛んだのも/その死角のただ中でだ」。金は正しく「死角」から言葉を投げかけようとする。そこに本当の詩作への飢えが横たわっていることをも確信している。「何がそこに取り付いてあるというのだ?!/自分のま後ろの/背に」。しかし求めようともまさぐることのできない真実があることもまた事実なのだろう。見えない背中に向かって鋭くなっていく感覚が新鮮な詩句を紡ごうとしているかのようだ。この詩集の序詞では「運命の符丁が貼り付いているかのような背面」とも述べている。剥がしてくても背につきまとってくる記しのようなものに思いをめぐらさなくてはならない。

誰もいない無人の国があることを。当たり前に季節はめぐり草木は芽生えているのだということを。それを背中にしてしまうようにして私たちはこの社会の今を生きているのだということを。真実を知りたくてあの日から空腹のままなのだということを。金の詩の一つ一つを読み進めていくうちに、時を経て野に立つ道しるべの姿が想い浮かぶだろう。 

「慈しみよ、わたくしたちの思いやりは/行き場のない手余物を/まっ黒い「フレコンバッグ」に封じ込めることではない。」と詩人は書く。この詩は私の実家の地域の風景を直かに見て、そのまま描かれたものである。我が故郷に足を運んで下さったのなら、ぜひお会いしてみたかった。除染土の詰まった黒い袋の群れの先の、その城門のようなあたりにて。
この記事の中でご紹介した本
背中の地図 金時鐘詩集/河出書房新社
背中の地図 金時鐘詩集
著 者:金 時鐘
出版社:河出書房新社
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