自叙の迷宮 近代ロシア文化における自伝的言説 書評|中村 唯史(水声社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年6月23日 / 新聞掲載日:2018年6月22日(第3244号)

分在する私 
伝記的事実と自叙とのずれから文学のあり方を考え直そうとする

自叙の迷宮 近代ロシア文化における自伝的言説
編集者:中村 唯史、大平 陽一
出版社:水声社
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本書は、捻じれた体験の場としての自叙テクストの孕む可能性に向き合おうとする論考が収められている。素材も日記や子供の作文という狭義の自叙から、伝記的事実と照応することで作家の自己投影と類推される作中の断片的エピソードまで広範囲にわたり、定義も章(著者)ごとに定まっているわけではない。いわば、自叙的なるものの多様性を思い思いに探すはてしない旅へのいざないであり、共通しているのは、伝記的事実と自叙とがずれる仕掛けを「誤り」と考えるのではなく、作者の気取りや隠ぺいが生み出す亀裂として捉え、書く、そして読むという行為、つまり文学のあり方を考え直す手がかりとする態度である。

抽象芸術の極みである音楽を紡ぐ作曲家にとって、ことばで書くことは、作品にどこか具体性を与えてしまう禁断の果実だろう。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが自己や作品のイメージを彫塑し、肥大化させ、煙に巻く三者三様の態度からも、自叙が静的な記録ではなく、自己イメージを加工する強力な武器だということがわかる。純粋無垢さが期待される子供の作文でも、他者の介入によって記憶の加工が行われる。革命・亡命にまつわる忌まわしい記憶を隠蔽したい欲求と共に、周囲の大人に刷り込まれたり、先生の期待に応えようとしたりする。生々しい自身の体験より、手本とされる文学テクストの模倣が、おぼろげな記憶に形を与える。しかし、過去を書くことが、書いている現在の「私」と切り離しえないことも作文から見て取れる。記憶もおぼろげな祖国への思いをテーマに対して荒唐無稽なことを書いてはぐらかそうとする子供は、ふざけることで「今、ここにいる私」を演出し、自分の痕跡を残そうとしているのではないか。

テクストの裏にわざと隠れた書き手を見つける、という読み方は、テクストが書かれた文脈を想起させ、テクストの意味が入れ子になっている可能性に気づかせる。修道士ポリカルプが改悛して書いたはずの中世宗教説話には清廉さを嘲笑するかのようなアイロニーが見える。それは、密かに自分を重ねた架空の文人の伝記を創作することで、亡命ロシア人たちの心の支えである「偉大なる」ロシア文学史も、それをあがめる同時代も一切合切を笑い飛ばすホダセーヴィチの道化的な態度ともつながる。自叙は読み手への大いなる呼びかけを秘めている。

詩人ブロークは、評論家に分析・分類されることを拒絶することで、読み手が自分と書き手との心を重ねて読むことを誘発する。近代文学では、個人の内面が主観であれ客観であれ文学のテーマとなり、書き手と作中人物が次第に同一化されるようになる。読み手が自分の「心」を通してそこに感情移入し、抒情詩の「私」と同調することは、自身の輪郭を言語化し、確認する作業となる。そして書き手もまた、「私」の体験を忍び込ませながら、読者と同調できる普遍的な人間としての「私」探しをしてきたのではなかったか。書く/読むという行為としての文学は、個としての特権性と他者と均質な普遍性という相反する性質を併せ持つ理想の「私」を感得しようとする行為でもあると言えるだろう。

「私」探しが内向的に求められる要因には、自身と外界との乖離がある。「芸術行為が生の実践や変革と同一視される」ロシア文化の枠組みは、前述の作家たちのみならず、ソ連時代期に戦争や粛清など厳しい時代を生き、書いたベルゴーリツにとっても同様、表象それ自体が生だった。書く/読むという行為は、虚偽で粉飾された公式イメージに対抗し、自分を見失わないためのパラレルな世界を構築する行為なのかもしない。亡命者も残留者もポストモダン作家でさえも「ロシアとはなにか」という自己言及が多いというロシア語文学の特質は、つねに不条理な社会との乖離に耐えながら「私」探しを迫られてきた人々の逃避であり、抵抗であり、反撃の足場であった。それは今の日本の読者にとっても切実な問題である。
この記事の中でご紹介した本
自叙の迷宮 近代ロシア文化における自伝的言説/水声社
自叙の迷宮 近代ロシア文化における自伝的言説
編集者:中村 唯史、大平 陽一
出版社:水声社
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