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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2018年6月26日 / 新聞掲載日:2018年6月22日(第3244号)

連 載 仏映画批評の歴史 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く61

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ドゥーシェ(右)とフレドリック・ボノー(中央)
JD 
 バザンが映画思想の歴史的考察を行なう一方で、その後の世代、ヌーヴェルヴァーグは、バザンとは異なり、慎重な考察はしていません。その当時の私たちにとっての映画は、当たり前のように芸術であるどころか、全ての芸術の中でも最も優れたものでした。映画に比べれば、他の芸術などは大したものではないとすら考えていました。ものすごく強気でした(笑)。
HK 
 バザンには、教師のようにして、社会的な面がつきまとっていたのではないですか。
JD 
 その社会的な考え方のせいで、私たちが『カイエ』で書き始めた当初から、バザンに対する疑問のようなものが生まれていました。社会的に正しい映画とは、『ポジティフ』誌が好んでいたような批評です(笑)。
HK 
 バザンのジョン・フォード軽視が理由で、蓮實重彥はバザンに対して厳しい見方をしています。50年代の『カイエ』に目を通すと、全くと言っていいほどジョン・フォードの記事が出てこないはずです。
JD 
 バザンのせいで、フォードが軽視されたのは知っています。なぜなら、『カイエ』の中に、ジョン・フォードに対する好意的な記事を初めて書いたのが、私だからです。1960年ごろだったと思います。
HK 
 ヴィスコンティも、少し似たような歴史を持っていますよね。ネオレアリズモの時代については記事が出ていますが、その後になると軽視され、1960年ごろになって、やっと評価される。
JD 
 その時代の『カイエ』で行われていたのは、一種の戦いです。それ以前の映画批評との決別の中で、中心的な役割を果たしたのがロッセリーニです。ロッセリーニはネオレアリズモの作家として知られていましたが、彼の映画の奥底にはリアリズムの問題があります。そうであるからこそ、『カイエ』の若い批評家たちは、ロッセリーニに賭ける必要がありました。ヴィスコンティは、貴族的であり、文化的に洗練された映画作家です。彼の映画の中には、普遍的文化の観念があります。その意味において、ヴィスコンティの考え方はロッセリーニの映画とは合致しません。ロッセリーニの考え方とは、「映画とは、目の前に広がるように、リアリズムであり現実の芸術である」ということです。ありのままの「生」が問題となります。一つの人生がどのようにして生きられるのかを見なければいけません。
HK 
 ドゥーシェさんは、「映画とは生である」と常に話しています。「映画は生を見せる」と置き換えることもできるはずです。その意味において、ロッセリーニの映画で問題となるのは、映画の純正さと言えるのではないですか。
JD 
 映画とは、単純に、生きられている最中の「生」を見せることができる唯一の芸術です。絵画、音楽、文学のような芸術は「生」を語ります。しかし、見せることはできません。喚起させることはあっても見せることはできないのです。しかし、映画は「生」そのものを見せます。

例えば、1910年代においての映画は、依然として写真と結びついていました。動く写真です。生命を写真の中に写し入れることが問題でした。映画の中に生命を写し入れることは、まだありません。動く写真を撮るということは、ある時代の生活の資料を作るということです。人々は映像の中のように動き、広場に行けば路面電車が走り回り、ヴェニスのゴンドラは独特の世界を作り出していた。これがリアリズムです。むき出しのままの最初期の映画のあり方です。

映画の特性とは、生きられているものとしての「生」を明らかにすることです。「生」がスクリーンの上で生きられた瞬間から、何かが動きます。ロッセリーニの天分とは、映画のそのような特性をわかっていたことです。
HK 
 ドゥーシェさんの話す「生」とは、演出の結果なのですか。
JD 
 「生」とは演出以上の概念です。演出とは、思想の産物にすぎません。ロッセリーニが見事なのは、登場人物たちの生き方を示したことです。ロッセリーニの仕事がどのようになされているかに焦点を当てると、いつも現在に結びついた人々がいます。そして、彼らはあり得るかもしれない死に立ち向かいます。しかし、何かが終わってしまうのか、終わらないのか、いつになってもわかりません。ロッセリーニの映画の中には、恒久的な、動きがあるのです。確信もなければ逃げ道もない。それゆえに、何かが動き続けるのです。人々は通過するための場所を探し続ける。このようにして、私たちはありのままの「生」に立ち会うことになるのです。ロッセリーニの映画とは、目的もなく前に進むだけの流れだとも言えるかもしれません。

〈次号につづく〉
(聞き手・写真=久保宏樹)
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