土の記 上 書評|髙村 薫(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2018年6月23日 / 新聞掲載日:2018年6月22日(第3244号)

髙村 薫著『土の記』上・下 
東京大学 稲生 宏泰

土の記 上
出版社:新潮社
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土の記 上(髙村 薫)新潮社
土の記 上
髙村 薫
新潮社
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二十年前に「文學界」に寄稿された「時代の記憶」と題する文章で、髙村薫は「昨日の新聞の一面に何が書いてあったか、もう覚えていない。」と綴った。大きな事件があるたびに新聞に論評を寄せる作家らしからぬ言葉である。一方で阪神淡路大震災の生々しい記憶は、意識下に根を降ろしているとも語る。

本作の舞台は二〇一〇年の奈良県宇陀市の農村である。生計を立てるほどの規模ではない、半分道楽のような稲作を営む主人公は、様々な稲の育て方を試しながら農作業中に出会う蛙や鯰といった動物たちの生の営みを見つめる。旧家に婿入りした主人公は、その妻を事故で亡くしたばかりであり、農作業をしていても妻の姿を幻視し、かつての不貞を疑い、妻の旧家を支えてきた女系の先祖たちも突然夫の元を去ったことを思い出す。その一方でもともと電機メーカーに勤めていた技術的素養を主人公は発揮する。集落の者が呆れるくらい早く田に出て、植物学の解剖用語を用いながら稲の花の成長を丹念に描いてみたり、露出した地層や田の土を見ては、大学時代に学んだ地質学用語を用いて分析してみたりする。こうした前近代的な生や家といった概念と近代科学の言葉が渾然となった取り留めもない思考は、翌年に起きる東日本大震災さえも農事暦に沿った営みの中に埋没させてゆく。

髙村薫のデビュー作『黄金を抱いて翔べ』は新聞記事の引用で始まったが、『土の記』は新聞記事を彷彿とさせるパラグラフで閉じられる。どちらも事実を淡々と伝える文体だが、前者は作品の展開の手がかりとしてレトリカルに用いられていたのに対し、本作ではそれが唐突な断絶をもたらす。この結末で描かれる豪雨災害は現実に発生したものだが、報道を明々白々に記憶していた読者は一体どれほどいただろうか。日本社会では事件や災害が次々と起こり、報道に事欠くことはなく、どれも強烈な印象を残す。にもかかわらず我々が忘却してしまうのは一体何故か。
土の記 下(髙村 薫)新潮社
土の記 下
髙村 薫
新潮社
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著者はテレビインタビューで、作品の形成に大きな影響を及ぼした二つの大震災を経験する中で「自分や世界を支えていた言葉を失った」と語る。しかしながらも何とか「言葉をかき集める」ことを試みてきたという。我々は事件や災害それ自体を、自分の日常言語では表現し得ない。当事者にとってみればなおさらだ。唯一その力を持ち得るのは瞬間の事実を切り取る報道の言葉だが、これは世界を支えることはできず、我々は忘却してしまうのである。

では世界を支える言葉を失い、事件や災害自体を報道の言葉でしか捉えられないことを悲嘆すべきかといえば、そうとも限らない。髙村が「かき集め」た本書の多くを占める何気ない農村の生活を活写する言葉の数々は、主人公の生とその思考をしっかりと捉えている。それは飛び出してきた蛙が想起させる妻の残影であり、自らの手で蒔いた稲の種籾が太陽エネルギーの循環で果たす役割であり、雨音の持つ周波数が呼び起こすかつての職場のノイズである。止めどない思考は、合理と非合理を行き来しながらも生を彩る。たとえその合理的な言葉が、地震を予測したり、結末を予測したりすることにつながらなかったとしても、身近に潜む生命や自然との交歓を成立させるのだ。二つの震災の記憶から言葉の限界に行き当たりながらも、一人の人間の生の世界を支える合理的な言葉と非合理的な言葉が一体となった土壌を提示した力強い作品だ。
この記事の中でご紹介した本
土の記 上/新潮社
土の記 上
著 者:髙村 薫
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
土の記 下/新潮社
土の記 下
著 者:髙村 薫
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
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