ブラックアース 上 書評|ティモシー・スナイダー(慶應義塾大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2016年10月7日

ホロコーストへの新解釈 リアルな征服目標としての肥沃な「黒土」

ブラックアース 上
出版社:慶應義塾大学出版会
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ホロコーストの歴史を辿ることが、否応なく現代性をもっているのは、私たちの心と生活にナチズムの時代から依然存続し生き残っているものを私たちが経験せざるをえないからである。ホロコーストは、ひとりヒトラーの世界観だけによってもたらされたものではないが、著者によれば、ヒトラーの世界観に隠された首尾一貫性が、新種の破壊政治と、人間が大量殺戮をなしうる(人間にはそういうキャパシティーがあるのだ)という新しい認識を生み出した。ヒトラーの世界像の要諦は、地球の自然的秩序をめぐる人種闘争が生活・世界(「自然界には政治的境界など無い」、「ジャングルの法が唯一の法」)なのだから、同情・慈悲心・人間性の念等豪も抱いてはならず人種への忠誠こそ唯一のモラルであるという認識にあった。

人種は、自然の摂理に従い土地と食物を求めて闘うのだが、地球の諸人種支配を目指す「反人種」たる「ユダヤ人」は、自然的秩序を常に破壊し、自然における闘争から人種を引き離す普遍思想なるものを案出。世界を生態学的により切羽詰まったものではなく逆により人間的秩序に見せるコンセプトを超自然的に(ヒトラーには薄気味悪い形で)生み出したのだという。政治的互恵性の発想、人間が他の人間をやはり同じ人間であると認める習慣はユダヤ人から発しており、キリスト教であれ共産主義であれいかなる普遍的な思想もユダヤ人支配のからくりに由来する。従来の研究には謎であった「ユダヤ・ボルシェヴィズム」への結晶化にいたるヒトラーの(誤想)世界観の主意一貫性の秘密は以上のように整理解明できる。ホロコーストへの新解釈に対する著者の自負が、既に十分窺えるプロローグ・序章である。
タイトルの「ブラック・アース」は(言葉の響きからして、日本の満州進出をラストシーンとする一九三七年の国策映画「新しき土」を連想させる)、ヒトラーとナチズムが「生存圏」政策のメタファーとしてのみならず、まさにリアルな征服目標として用いた、ウクライナの豊かな大地、肥沃な「黒土」を指している。一九四一年の対ソ不意打ち攻撃に始まるホロコーストの初期段階の、最も血塗られた局面に関して、これまでの研究において見落とされていたものは何か。それは、征服された東ポーランド、旧ソ連占領地域、バルト三国、わけてもウクライナにおいて、ナチスによって意図的に行われた、あらゆる国家構造の破壊、またそれによってもたらされた市民の完璧な無権利状態、スナイダーいうところの「国家のない」状況の創出である。無国家化ないし無秩序とホロコーストとのネクサスないし因果関係については、F・ノイマンやH・アーレントにも萌芽的視点や分析がみられるといってよく、著者自身、本書第五章で「好き勝手をやれるのは国家を持たない人間たちが相手の時だけ」というアーレントの言葉を繰り返し引用している点からも、スナイダー特有の解釈のイノヴェーションといえるのは、ナチドイツの対ソ攻撃に先立つ、ソ連による東ポーランド地域、バルト三国の占領と暴力支配を前提にした、「二重の」占領、「二重の」国家破壊、徹底的な国家構造廃棄と「二重の」現地協力者運用の術こそ、ユダヤ人の大虐殺を可能にさせた決定的要素だったというテーゼに落ち着くのではなかろうか。もっとも、本書全篇を通じてテーゼは繰り返されているものの、具体的な解析に乏しく、やや説得性を欠いているといわざるをえない。

同時に注目されるのは、第三章「パレスティナの約束」はじめ、やはり本書のいたるところでユダヤ人国家創出への一九三五年以降のポーランドの密かなるバックアップ、特にシオニスト右派(なかでも改訂派)の動向や、その指導者A・シュテルンやベギン、シャミルたちに対する戦間期(さらに亡命政権時)ポーランド国家の(わけても軍事的)支援について類書にはない密度で詳述されている点である。ブンドをはじめとする非シオニストの対応等には殆ど言及されていないことからしても、パスペクティヴ的にも構成上もバランスを失した傾きとバイアスを指摘しなければならないが、ホロコースト史の観点からも「ナチ体制とパレスティナ」の問題と合わせ、さらに総合的に光があてられて然るべき問題史であろう。

さらに第六章「アウシュヴィッツの逆説」が、虐殺のクロノロジー、時系列からしても、殺戮されたユダヤ人の数からしても、また殺害方法からしても、アウシュヴィッツというトポスをホロコースト史の中心に据える問題性を扱っている点も注視に値しよう。本来一章を設けて論点化されるまでもないことと見る向きは日本でも少ないであろうが、世界のホロコースト認識の現状に鑑みて、あらためて強調される必要があったと思われる。

訳語について一言させていただければ、オーストリアのシュシュニックの体制に「独裁」、ポーランドの一九三五年憲法に「全体主義」、ラトヴィアの体制にも右翼「全体主義」と訳し分けした形容訳語が各々あてられているが、原語はどの場合もauthoritarianである。著者自身、dictatorialやtotalitarianとauthoritarianとを明確に区別して用いている点から、いずれの場合も「権威主義」でよいのではないか。またホロコースト史上重大な位置を占める一九四二年一月のヴァンゼー会議に対する著者の解釈を明示した原注訳六八頁五行目「ヒトラーの手紙に続いた」極悪非道の計画adiabolicalplan that was followed to the letterだが、ヴァンゼー会議に提示されたヒトラーの手紙などはないし著者もそんなことを指摘しているのではない。「会議から遺漏なく導き出された」極悪非道の計画とでも訳せるところではなかろうか。とまれ上下二巻、大変な労作の邦訳から日本語の表現としても学べることは数多い。
この記事の中でご紹介した本
ブラックアース 上/慶應義塾大学出版会
ブラックアース 上
著 者:ティモシー・スナイダー
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
ブラックアース 下/慶應義塾大学出版会
ブラックアース 下
著 者:ティモシー・スナイダー
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年10月7日 新聞掲載(第3159号)
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