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更新日:2018年7月3日 / 新聞掲載日:2018年6月29日(第3245号)

山野浩一氏追悼パネル  岡和田 晃

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SFセミナー2018(撮影:舞狂小鬼)
二〇一七年七月二〇日、山野浩一が癌で亡くなった。一九三九年生まれの山野は、本紙(「週刊読書人」)で、一九七二年から八〇年まで月刊のSF時評(途中からSF・ファンタジー時評と改名)を担当。切れ味鋭い批評により、J・G・バラードらの提唱したニューウェーヴSFと、先鋭的な世界文学を接続した。他方、身内褒めの体質が抜けないSF界では「検事」と呼ばれ、異彩を放った。そのためか、山野の仕事は適切な位置づけをなされているとは言い難い。そこで今回、第五六回日本SF大会ドンブラコンLL(於:静岡県コンベンションアーツセンター・グランシップ)、SFセミナー2018(於:全電通労働会館【東京】)という二つのイベント内で催された、追悼座談会の模様をレポートする。

いずれの企画も、私(岡和田)が司会を担当した。一九八一年生まれと、リアルタイムの世代ではないながらも、山野が創刊したオルタナティヴ・マガジン「NW-SF」(一九七〇~八二年)や、監修をつとめたサンリオSF文庫(一九七八~八七年)、その創作や批評に強い影響を受け、私淑してきたからだ。その縁で『山野浩一全時評』(東京創元社刊行予定)の編集作業を任されている。

追悼企画の一番目・第五六回日本SF大会のパネル(二〇一七年八月二六日)では、私の提供資料を中心に、山野のライフヒストリーを、初期から晩年までを確認するところが中心となった。その内容は直前に出た「ニューウェーヴは終わらない」(「SFマガジン」二〇一七年一〇月号)にもまとめている。それを補強する形で、パネリストたちが証言を加えていく。登壇者は、増田まもる(一九四九年生まれ、翻訳家)、巽孝之(一九五五年生まれ、慶應義塾大学教授・SF評論家)、荒巻義雄(一九三三年生まれ、作家)という面々。

増田は、「NW-SF」一〇号(一九七五年)において、ラングドン・ジョーンズ「レンズの眼」を訳し、翻訳家デビューを飾った。サンリオSF文庫からトマス・M・ディッシュ『334』(一九七九年)などの訳書を刊行し、翻訳家として立ったという縁がある。NW-SF社へ出入りしているうちに、いきなり山野に「何か翻訳やってみないか」と言われた。『334』のときも、そう。晩年の山野は、「増田くんは翻訳家として、本当に手がかからなかった」と賞賛していた。「NW-SF」のワークショップではハイキングの企画もあり、増田はそこにも参加したという。

巽は、ダルコ・スーヴィンやカズコ・ベアレンズらと協力し、山野の批評「日本SFの原点と指向」(「SFマガジン」一九六九年六月号)を英訳、学術誌「サイエンス・フィクション・スタディーズ」六二号(一九九四年三月号)掲載に尽力したことがある。山野は、そのときの打ち合わせの手紙や草稿を、晩年まで保管していた。また、同論文を編著『日本SF論争史』(勁草書房、二〇〇〇年)に収め、また慶應義塾大学での特別講師として、山野浩一を招聘したこともある。山野は講義にとても意欲的で、わざわざ大学近くのホテルを確保、朝早くから打ち合わせを進めたという。実際の講義の内容は、『リスクの誘惑』(慶應義塾大学出版会、二〇一一年)に収録されている。
第56回日本SF大会(撮影:青井美香)


荒巻は、『日本SF論争史』内で、山野浩一との絡みでは主に論争相手として紹介されているが、他方で日本にニューウェーヴを根付かせた同志という側面もある。本紙二〇一七年一〇月二七日号で私が書評した『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』(彩流社、二〇一七年)といった作品も、山野と同じニューウェーヴSFの文脈で書かれたマニエリスム小説である。

大きな焦点となったのは、「山野×荒巻論争」であった。「日本SFと原点と指向」で山野は、「それまでの日本SFは、アメリカSFの建て売り住宅」と主張したが、それに対して荒巻は日本作家を弁護する立場をとった。山野は記号論的で、荒巻は定義を追究していく。

荒巻は流れとして、「SFマガジン」一九六九年二月号に掲載された「覆面座談会 日本のSF '68~'69」が巻き起こした騒動が前提にあると述べる。つまり、「SFマガジン」初代編集長であった福島正実が「仕掛けている部分があって、その流れのなかで「日本SFの原点と指向」が出てきたと読まないと(いけない)」と証言する。このあたりは、今後いっそうの研究が待たれる部分だろう。

山野と荒巻は、プライベートで実際に仲がよく、山野は荒巻の小説『時の葦舟』(講談社文庫、一九七九年)の解説を書いている。また、絶筆となった「内宇宙の造園師」(『J・G・バラード短編全集3』解説、東京創元社、二〇一八年)は、論争の成果として荒巻が仕上げた代表論文「術の小説論」(「SFマガジン」一九七〇年五月号)への返歌としても読めると巽は指摘した。

会場では、翻訳家の大和田始(一九四九年生まれ)による追悼文「さらばでござる」(「SF Prologue Wave」二〇一七年九月二〇日号)、同じく翻訳家のデーナ・ルイスによる追悼文「山野浩一 ある回想」が朗読された。その二人に加え、フリー編集者の高橋良平(一九五一年生まれ)をパネリストに迎えたのが、二回目の追悼企画・SFセミナー2018のパネル(二〇一八年五月四日)である。

高橋は山野浩一の活動で、寺山修司がキーパースンだったと指摘する。デビュー小説「X電車で行こう」の掲載先として、セミプロジン「宇宙塵」を紹介したのが、寺山だったからだ。その「X電車で行こう」が新書館から単行本になったのも(一九六五年)、寺山や編集者の内藤三津子の尽力が大きい。

その高橋は、荒巻義雄が関わったSFアンソロジー『錬金術師の夢』(フォーカス産業、一九七二年)の月報に掲載する批評「フリッツ・ライバーのイナー・スペース小説」を依頼したところから山野との交流が始まった。「NW-SF」の新号が出ると、それをトラックで取次に搬入するアルバイトもしたそうだ。「スターログ日本版」の編集部へ入った後、山野に「80年代のSF」という批評を依頼したという(一九八〇年一月号)。

デーナ・ルイスは、一九七六~七七年頃に初めて読んだ日本SFである山野浩一の「鳥はいまどこを飛ぶか」を英訳して山野に送ったところから、交流がスタートした。一九七七~七八年頃に、はじめて実際に会い、飲みながら徹夜して話し込んだという。その後、関係は薄れたものの、「ファウンデーション・レビュー・オブ・サイエンス・フィクション」誌一九八四年一一月号に、山野の批評「英文学とイギリスSF」を英訳するなど、日本SFがまだ本格的に紹介されなかった時期に、山野のイギリスSF論を紹介していた。

大和田は、J・G・バラードの私家訳や山野浩一の小説へのファンレターを山野へ送るうちに、山野浩一論を書くよう勧められ、商業デビューを果たした(「遊侠山野浩一外伝」、「NW-SF」五号、一九七二年)。ほぼ同時期に山野の紹介でロバート・シルヴァーバーグ「太陽踊り」を訳し(「SFマガジン」一九七二年一月号)、翻訳家デビューを飾る。卒業後は、NW-SF社へ就職した。

パネルでは、大和田とともにバラード『コンクリートの島』(一九八一年)を訳した國領昭彦が保管していたNW-SFワークショップの資料が紹介された。NW-SF社と同ワークショップは、若者の避難所であり、山野が手料理をふるまってくれる食料供給所でもあり、マックス・ピカート、オルテガ、ベルジャーエフのような哲学者の著作を読み、創作や翻訳を学んで自己を鍛える場所でもあった。

最後にルイスは、「『NW-SF』の集まりには、演劇もあり、政治もあり、革命もあった」とし、日本のSFに知的・政治的なものを導入した立役者として山野浩一を評価した。大和田は、山野浩一が生前、評論家としての単著を出さなかったことを指摘し、いまこそ評論家としての顔を評価することを訴えた。高橋は、山野と交流があった松岡正剛や筒井康隆に言及し、一九六〇年代~七〇年の全体的な文化状況のなかで、山野浩一を位置づけ直す必要があると総括した。

SFセミナー2018の追悼企画はその日の夜も続いたが、その内容も含め、より詳しくは本紙電子版で紹介したい。
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