分からなさに向き合うことから 『「鬼畜」の家わが子を殺す親たち』(新潮社)刊行を機に 対談=石井 光太×歌代 幸子|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年9月9日 / 新聞掲載日:2016年9月9日(第3156号)

分からなさに向き合うことから
『「鬼畜」の家わが子を殺す親たち』(新潮社)刊行を機に
対談=石井 光太×歌代 幸子

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『遺体』『絶対貧困』など、衝撃の社会の真実を描き出してきた作家の石井光太氏が、『「鬼畜」の家わが子を殺す親たち』(新潮社)を刊行した。本書では近年起ったネグレクト事件から「厚木市幼児餓死白骨化事件」「下田市嬰児連続殺害事件」「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」が丹念に取材されている。
厚生労働省によれば、全国の児童相談所が二〇一五年度に対応した児童虐待は十万件を超えた。
虐待……気持ちのよい話ではない。でも自分には関係ないこと、と知らぬふりでよいのか。刊行を機に、ノンフィクションライターの歌代幸子氏と対談していただいた。(編集部)
一日に一人ネグレクトで子どもが殺されている

 
歌代
 私も事件取材をしていた時期がありますが、精神的に苦しく、ここ数年は遠ざかっています。ですから『「鬼畜」の家』は、よくここまで取材されたと感心します。そもそも、なぜネグレクト事件を取り上げようと思ったのでしょうか。

石井
 まずはネグレクトで大勢の子供が死んでいるという事実です。二〇一一年から一三年のデータになりますが、警察が虐待による死亡事故と認めているもので年間七〇~一〇〇人、日本小児科学会による推計では約三五〇人の子供が死亡しています。つまり一日一人、子供が殺されている計算です。
事件の数が多いので、その全てがニュースになることはありません。それでもネットニュースに次々見出しが出ては、一般読者から「親を同じように殺せ」とか「鬼畜」といったコメントが溢れ、その翌日には忘れられている。裁判まで報道されるのは年に数件あるかないかです。子供が一人殺されるというのは、ものすごく大きな出来事なのに、それが圧倒的なスピードで処理されてしまっている、なにより自分もそれを片付けてしまっている一人だと気づいたんです。ここできちんと立ち止まる必要があるのではないか。そう思うようになりました。

歌代
 ニュースではどれも似たような事件に捉えられ、関心も希薄になりがちなことに胸が騒ぎますが、本当に知りたいことには辿りつけませんね。

石井
 報道では、例えば高野愛の「下田市嬰児連続殺害事件」の要因を、「生活苦」としています。でもシングルマザーの半数が生活苦にある現状の中で、皆が子供を殺しているわけではない。ならば、「生活苦」で説明できない何かが、そこにはあったに違いない。

歌代
 『「鬼畜」の家』というタイトルには、虐待する親たちを「鬼畜」と言ってしまっていいのか、という 石井さんの問いが込められていると思うのですが、本書の冒頭では、妻が夫に宛てた愛情に満ちた手紙が紹介されます。それが実子への虐待、殺人、死体遺棄を行った夫婦間の手紙であるという、衝撃的なプロローグでした。

石井
 初めは言葉だけなのではないか、と半信半疑でした。でも実際に本人たちに繰り返し話を聞くと、どうも彼らなりにその愛情は本当のようなのです。そうであるならば、なぜネグレクト事件が起こったのか。「彼らなりに」というところを、生い立ちや人間関係まで掘り下げて調べる必要があるだろうと。それが取材の出発点であり、方針でした。でも調べて行けば行くほど葛藤は尽きず、方針もぶれ続けました。

歌代
 さんの取材した『音羽「お受験」殺人』も、報道通り、お受験絡みの嫉妬からの殺害かというと、そんな簡単な話ではなかったですよね。

歌代
 私が音羽の事件を書こうと思ったのは、 石井さんが言ったような「お受験」「心の闇」といったステレオタイプな報道への違和感もありましたが、一番強かったのは、加害者に対して「他人事ではない」「共感する」という声が上がったこと。普通ならば、同情は被害者に向かうはずなのに。その違和感から取材を始め、公判に通うと、思い描いていたのとは全く違う被告の姿が見えてきました。自分自身も一緒に迷って底なし沼にはまり込むような、進めば進むほど分からなくなる恐怖がありました。

石井
 僕も今回の取材ではどこに軸足を置いたらいいか、悩みました。事件には被害者がいますが、それが子供となれば、圧倒的に無力な存在。加害者に同情の余地はない。そう思っているのに、調べていく中で、加害者に感情移入するところが出てくるんです。虐待する親が壮絶な人生を背負っていることを知り、あるところで同情しないではいられないし、彼らなりに必死になって子育てしようとする姿には、愛おしさも感じました。
でも加害者を庇うわけにはいかない。それは、道義的に認められない。一方でノンフィクションは、書き手独自の視点があって、書き手の感情移入が表われるからこそ、論文やニュース記事とは違うものになっていきます。そのバランスをどうとるのかが、非常に難しかったですね。結局「作品」を作ろうとすることをやめました。彼らがどういう体験をして、今に至ったのかという事実を、自分の感情をなるべく排除しながら書こうと努めました。
惑い、葛藤を読者も共に味わってくれるなら

 
歌代
 これまでの作品はどんなテーマであれ、石井<さんという作家の存在感があった。今回は、自分の目線を強調することを控えながらも、同時に惑っている自分やもがいている自分を、そのまま見せていますね。強烈にタフな人だろうと思っていた石井さんが、もがいてわだかまっている、そのことにむしろハッとさせられました。
いかなる理由があろうと、人を殺めることは罪ですが、そこに至ってしまった背景を知れば、少なくともノンフィクション作家が伝えるべきは、白か黒かで切り分けた世界ではないだろう。しかし、虐待について「負の連鎖」ということがよく言われますが、そうした背景が、事件の弁明になってしまうのも違う。難しいところです。
私は音羽の事件で、初めて加害者に添うものを書きましたが、自分をどこに置くべきか本当に悩みました。

石井
 そういうとき、歌代さんはどう対処するのですか。

歌代
 同じことを石井 さんに伺いたいのですが(笑)。私は、自分も母親であるというところからスタートして、子育てが、単に子供が可愛いだけでは済まされないことを重々承知で、それでも子供を殺めた親に対し、そんなことをしては絶対にいけないじゃないか、と最初は正義感でした。でも加害者の話を聞き、加害者に共感するという女性たちに会う中で、自分自身の育ち方や子育てがシンクロして、結果、自分も同じ渦の中にぐるぐると入り込み、書いている最中に自分の立ち位置を決めるところまでは行けなかったと思います。その後、心理学やカウンセリングを勉強して、共感しても共鳴してはいけないということを学ぶ中で、何年もかけて自分の距離感を培ってきたんです。だから石井さんがこの一冊の中で、こんなに重いテーマの事件を三つも追っているのは、本当にすごいと思うのです。

石井
 先ほど「負の連鎖」とおっしゃいましたが、虐待されて育った全ての人が、成長して子供を虐待するかと言えばもちろんそうではないですよね。同じ環境におかれ、同じ体験をしても、同じ犯罪に走るわけではない。当然そこには、個人の特質が現れてきます。そういう個人差を押なべて論じてしまったとき、見えなくなるものがあります。
裁判は、弁護士側と検察側の二極の対決です。弁護士側は被告の幼少期の悲惨な体験を並べ、心理学者を登場させて酌量を願う。一方検察側は、お前たちのしたことは、こんなにひどいことだ、と被害状況を克明に突きつける。裁判を見ていると、世間の縮図のように思えました。加害者の社会復帰を支援する民間団体のような人々は、弁護士と同じ側に立って、被告に寄り添い、人権を主張し、情報を求め、社会での共存を重要視するでしょう。一方、殺された人間の無念を晴らすべきだという視点から、ネットなどで罵詈雑言を並べて加害者を叩く立場の人々もいる。法で裁くために、裁判所での二極対立は必要なことです。でも世間もその視点だけでいいのだろうか、と思うんです。
僕がすべきことは、白黒をつけることではなく、個々のコップの形状、それにどれだけの水が入ってしまったのか、そしてどのように水が溢れたのか、といった細かな事実を一つ一つ示していくこと、それしかないのではないか。そのために今回は、オムニバス的に三つの事件を並べることで、炙り出されることを見つめようとしました。僕が結論を出せる程、簡単な問題ではない。ですから最終的にそこから何を感じるのかは、読者に委ねることになります。戸惑わせるかもしれないけれど、読者が、僕が感じた矛盾や葛藤を、同じように味わってくれるなら、とも思っているんです。

歌代
 私も結局、見たこと聞いたことをそのまま提示し、それを読んで感じて欲しいと、そのように書くしかなかったですね。読後感として、後味が悪かったとか、苦しかったという言葉が多かった。苦しみつつ読んでくださってありがとうございます、という気持ちです(笑)。

石井
 後味が悪いのは、処理されない何かが読者の中に残っているということですよね。僕の本も、読んだ人それぞれが何かを感じて、それぞれのベクトルで問題に向きあうきっかけになれば、うれしい。「子供にやさしくしようと思った」というのでもいいし、夫が妻を手伝うように心掛けるのでもいい。また例えば社会福祉士なら、日頃母親を相手にすることが多いと思いますが、齋藤幸裕のようなシングルファーザーも視野に入れて、支える手立てを考えてはどうか。児童相談所は、迷子で保護された乳幼児に気になる痕跡があったとき、家庭にどう関わっていけるのか。大家さんは住人の状況をもう少し把握できないか。ネグレクトについてはいろいろな立場の人が、それぞれの角度から関わって、それでもなかなか解決しない問題だと思います。今まで、一行ニュースで、右から左に流れてしまっていたものを、心に留めるところから、社会に属する一人ひとりが、葛藤を抱えながら苦しさの中で考え、できることをやっていくことでしか、社会は成り立たないのだと思います。
反社会ならぬ非社会化する状況を伝える難しさ

歌代
 ノンフィクションで事件を描く際に、以前はドラマ性や強烈なキャラクターが求められましたね。でも今、事件の要因はけして一つではないし、ある意味で、分からない人間、分からない事件を描いていく時代だと感じます。

石井
 今、少年院を取材しているのですが、かつては暴走族などに典型的に見られたように、社会との対立構造の中で事件が起き、人々の怒りがわいていた。でも今は、反社会ではなく、非社会になっている。怒りを社会にぶつけるのではなく、矛先が内へ内へと、家庭中に向えばネグレクト、自分自身に向えば自傷行為や引きこもりとなる。昔は、マスメディアは反社会的な存在を描けばよく、ドラマティックに正義を語ることが可能だった。今、マスメディアが伝えるものは、社会に非ざる状況だからこそ複雑で、例えば「貧困」というキーワードを持ち出した瞬間に、本質と乖離して大きな誤解を招くことがありえる。或いは消費のためのネタになってしまう。
以前、世間で「『LINE』いじめ自殺」と呼ばれる事件を調べたことがありました。確かに「LINE」には自殺した女児の悪口が書き込まれていたし、学校でのいじめもありました。でもいじめを軽く見るつもりはないのですが、直接の原因としては、どうも腑に落ちない。調べていくと、母親の再婚相手が非常に厳しい人で、しかもほとんど家に帰ってこない。ぐれている義理の姉二人が家を牛耳っている。また自殺した女生徒と同じ学年に、義理の姉妹がいる。つまり、学校にも家庭にも居場所がない状況だった。一つ一つは、直接自殺の要因ではないけれど、逃げ道が全て断たれていたんです。
それは『「鬼畜」の家』の事件でも同じです。例えば、「厚木市幼児餓死白骨化事件」で齋藤理玖君は、水も電気も止ったゴミ屋敷の中で、監禁され、餓死し、放置された。父親の齋藤幸裕には、懲役十九年という重い判決が下されています。しかし例えば、幸裕には精神的な問題があるのではないかという見方がありました。多感な時期に母親が重篤な統合失調症を発症して、長男である幸裕がその重荷を一手に引き受けていた影響です。或いは育児を放棄して行方不明になった妻の存在があります。生活に貧窮する中、幸裕が安らぎを求めて別の女に夢中になったという事実もありました。要因は一つではなく、数々の条件が重なったとき、凄惨な事件となった。彼を「鬼畜」「殺人鬼」と捉えれば楽だけれど、実は誰にとっても他人事ではないんです。反対に言えば、その条件の一つでも崩すことができたなら、理玖君は死ななくて済んだかもしれない。
もう「『LINE』いじめ自殺事件」、「お受験殺人」といった安直に世を煽る報道の仕方は限界に近づいています。マスメディアとは違う発信と、真実の探り方を、僕らが模索しなければいけないだろうと思います。

歌代
 ところで、石井さんもお父さんなんですか?

石井
 はい、そうです。

歌代
 父親になる前だったら、こういう事件を取り上げていましたか?

石井
 書かなかったと思いますね。親の立場や気持ちに関心がわかなかったと思います。何より、加害者である父親が「一生懸命に育ててた」という言葉を信用することができなかったと思います。例えば僕は仕事中心の人間で、家や子供のことはすべて専業主婦である妻に任せっぱなしにしています。まともにお風呂に入れたり、おむつを替えたりすることさえしない。休日さえもない。
でも、本書の加害親である齋藤幸裕も皆川忍も、僕なんかよりよっぽど子供の面倒を見ている。ご飯を作り、体を洗ってあげて、おむつや洋服を替えてあげる。妻が失踪した後も、児童養護施設などへは入れずに自分で育てようとしている。もちろん、結果として彼らのゆがんだ心がネグレクトや暴力に向かわせてしまうんですが、その前の段階までは僕なんかよりよっぽど「父親」の役割を果たしているんです。だとしたら、彼らが語っていた「私なりに愛していた、育てていた」という言葉は本当なのではないか、と。
男性が書く、夫にフォーカスした子供の虐待事件

歌代
 そうした石井さんの父親側への目線は興味深かったです。理玖君の事件について私が書いたら、きっともっと母親を責めた気がします。一般的に、子供に関する事件では母親にフォーカスが当たり、DV夫や虐待する父は出てくるけれど、議論の的にはならない。でもこの本では、男たちが何をしていたのか、子供をかわいがる姿も追うし、妻に逃げられたり、尻に敷かれる情けない姿も描く。男性が書く、夫にフォーカスした子供の虐待事件を、新鮮に思いました。子供の虐待死事件は、報道を見る限りでは、ステップ・ファミリーで、実子ではない子を義理の父親が殺める、というケースが多いですよね。今回は三つの事件共に実子だというところも、特徴があると思います。

石井
 男は情けないですよね。一概には言えないですが、女性の方が強いというのが、事件を追っていて感じたことです。齋藤幸裕は、妻がいなくなった瞬間に、ライフラインを断たれてそのままだし、家は異臭のするゴミ屋敷になってしまう。皆川の事件でも、圧倒的に妻の朋美が強くて、夫の忍は妻の指示でわけも分からず犯罪に手を染めている。それに比べると、高野愛は二児を生まれてすぐに殺すひどい事件を起こしましたが、必死に働いて他の子たちを育ててもいたわけですね。今回取り上げた事件に関して言えば、出てくる女性は一人としてまともとは言えないのですが、それ以上に思うのは、男性が子育てに介入するときの脆弱さです。
「育メン」がはやっていても、子育てはやはり圧倒的に女性が大きな役割を担っています。ですから育児に関する女性を支える社会システムはもちろん必要です。が、男性を支えるシステムがほとんど整っていないことにも目を向けるべきです。シングルマザーを受け入れる施設はあっても、齋藤幸裕のような人間が一人で子供を育てるときに、逃げ込める場所は、必死に探さないとみつからないんです。もし彼に育児教育をしてくれる場所があったなら、育児で困ったときに連絡できる場所を、教えてくれる人がいたなら……。
皆川忍も、彼なりに躾をし、彼なりに正しく子供を育てているつもりだった。でもうまくいかず電話相談や児童相談所に連絡している。結局、面会や一時保護の話が進むと、キャンセルして支援は受けませんでしたが。これは憶測ですが、児童相談所が、「それではお母さんに代ってください」などと、朋美を主体にしようとしたかもしれない。相談したのは彼でも。そうなったときに、うまくいかなくなったのではないか。家庭の在り方は個々に違うのに、社会の想像力が足りていない気がします。男性に対する子育て教育や、家庭崩壊した後のサポートなど、困難な事例に向き合う方法を共に考えることは今後の大きな課題だと思えます。

歌代
 高野愛の事件は、子どもを産んですぐに殺してしまったというケースです。こういう事件も増えていて、石井さんが最初に、一日に一人の子供が殺されている、と話されましたが、二週間に一人の割合で、〇歳児が遺棄されたり、殺されているとか、ネグレクト死の四割以上は〇歳児とも言われています。

石井
 今日も乳児の殺人・遺棄事件がニュースになっていました。しかし、よく一人で病院にも行かずに産めると驚愕します。高野愛は、朝、バイト先で破水して、生まれたのは翌明け方の三時。約十八時間陣痛で苦しんだわけですよね。

歌代
 あのシーンは、コンパクトに書かれているけれど、めちゃくちゃ痛かったし、苦しかったよね、と気持ち悪くなるぐらい、感情移入して読みました。

石井
 それにも関わらず、その間に公園に行ったり、買い物に行ったり、幼稚園に子供のお迎えに行ったり……あまりにシュールすぎて、違うカメラで撮ったらコメディですよ。コメディになってしまうぐらい、彼女は追い詰められていた。肩を持つことはしませんが、未成年者がトイレで産み捨てた、というような事件も、聞く度に、どれだけ追い詰められたのかと思います。家族も、相手の男も、誰も助けてくれなかったのだなと。

歌代
 エピローグには特別養子縁組を支援する「Babyぽけっと」というNGOが紹介されています。私も「赤ちゃん縁組」を行う団体の取材をしているのですが、そうした活動によって、生まれてくる子供の命が守られ、望まぬ妊娠をした女性への支援も広がりつつあります。だからそういう施設があって、親身になってくれる人がいるという情報が伝えられたことも、意義があったと感じています。

石井
 「Babyぽけっと」は結論としてではなく、一つの事例のつもりで書きました。あそこのスタッフの女性が、ようやく「Babyぽけっと」をみつけて連絡してきた人を叱ってはいけない。「これまでよくがんばったね」「よく来たね」と言ってあげることが大事なんです、と言った言葉を伝えたかったんです。当事者はそこへ辿りつくことさえ大変で、せっかく辿りついても、否定の言葉を投げられた瞬間に逃げ出してしまうだろう。だから、「よくここをみつけてくれたね」「なんとかするからね」と言ってもらえたときに初めて、そこに救いの可能性が生まれるのではないか。そういう救いの目線が「Babyぽけっと」だけでなく、学校でも近所づきあいの中でも、投げかけられるなら、と。口で言うほど簡単ではないと思いますが。
彼らは、彼らなりに確かに子供を愛していた

石井
 「Babyぽけっと」には、団体のことを本で読み、何か手伝いたいという連絡がきているそうです。知れば人は動くんですね。でもそうした良い面も見えながら、実を言うと、「Babyぽけっと」について書いたことが正しかったのか、未だに葛藤があります。

歌代
 なぜですか?

石井
 僕が結論のつもりで書いていなくても、他の陰惨な事件に対して、一筋の光のように、ある種の手打ちのように、読まれる可能性がありますから。でも三つの事件を並べるだけで、書き手が去っていいのか、という逡巡もあって。
妙に聞こえるかもしれませんが、殺された子が読んだときに、このエピローグをどう思うだろうか、と思うんです。一番辛い目に遭った当事者が、読んでどう思うのか、それが書く上での指針になります。『遺体』では、震災で亡くなった人、或いは遺族に、書いてもらってよかったと思われるものを書きたかった。『浮浪児1945―』であれば、死んでしまってぼくの本の中には登場しない浮浪児に、この本があってよかったと思ってもらえるだろうかと。
そして今回の本を、理玖君や玲空斗君が喜んでくれるのかというと、あまり自信はないんです。玲空斗君は、ウサギ用ゲージに監禁されて死に、遺棄された死体は未だにみつかっていない。しかし、そんな目に遭ってさえ、養子になど行かず、最期まで実親と一緒にいることを望んだのではないか。周囲の思いとか、倫理や道徳とは全く違うところに、子供たちの親を想う気持ちがあるから、こうした事例は難しい。この本は、僕の書いた作品の中でも浮いていると思います。

歌代
 確かに、どんなにひどい目に遭っても、それでもママやパパが好きだったかもしれないですね。私も養護施設に取材に行くと、どんなに虐待を受けた親でも、刑務所に入って何の養育もしてくれない親でも、施設の職員がその悪口を言おうものなら、子供は強く反論すると聞きます。どんなに痛めつけられても、冷遇されても、親を慕う思いがつのるのだと。
養子縁組は子供に家庭を与えるための取り組みですが、養親との愛情形成にも困難はつきまとう。子供にとって必ずしも幸せなのかどうか、その葛藤は常にありますね。だから、「Babyぽけっと」がこの本の中で、結論でも安直な希望でもないことは伝わります。母親の気持ちや、育てたくても育てられない女性たちがいるという、現状の一面を伝えるために書いたのだろうと。

石井
 特別養子縁組だけでなく、児童相談所の介入で、親と引き離される場面がありますね。本当は子供が何を望むかということを一番に考えて、母親のそばにいることを望むのであれば、一緒にいさせてあげるべきだと思う。理想を言えば。でもそのときには、お母さんごと、家庭ごと支援をする必要があるでしょう。ただ母子生活支援施設が増えればいいか、といえばそうとも言いきれず……。
「Babyぽけっと」のスタッフが語っていたように、養子縁組を考えていた女性が、やはり自分で育てたい、手放したくないと連れ帰ったわずか三ヶ月後に、赤ちゃんが殺された、という事件もある。だから養子に出して親と引き離すしかない、という選択があることは否めない。ただ子供を救うための養子縁組もまた、一方で子どもに傷を追わせる行為なのだと認識した上で、子供たちが成長する過程において、また社会に出たときに、彼らをどう支えることが出来るのか、長い目で見守る必要があるのでしょうね。

歌代
 プロローグに書かれていた、ネグレクト事件の親たちが、子供を「愛していた」と言う言葉は、取材を重ねる中で実感に変わりましたか。彼らは、彼らなりに、確かに子供を愛していたのだと。

石井
 それは感じました。特に皆川忍の家族写真を見たときに強く感じたんです。出所は明かせないのですが、一枚のSDカードを見せてもらいました。その中に三〇~四〇枚あったのかな、すごく幸せな家族写真が詰まっていたんです。例えば、小さなお風呂に忍と子供たちがぎゅうぎゅうに入って、笑顔でピースしている写真とか、誕生日パーティでケーキに蝋燭を立てて皆が笑っている写真、朋美に赤ちゃんが生まれたときに病院のベッドで皆でお祝いをしている写真。確かに、次女の玲花ちゃんは首輪をつけられていたり、殺された玲空斗君が顔を腫らし包帯を巻いていたり、気になるところはあるのですが、それでも二人とも笑顔で親に寄り添っているんです。それを見たときに、確かに「彼らなりに」愛していたんだ、と。

歌代
 皆川家の写真は誰が撮ったものなのか気になっていましたが、家族が家族のために撮ったものだったのですね。子育てに関しては、育児書はありますが、突き詰めれば、誰しも「私なりに」しかないんですよね。

石井
 極端な話、我が家も同じです。僕も僕なりに子供のことを愛している。では何が違ったのか。「僕は愛していました」「世話してました」という彼らの言葉が、悲しく心に残っています。
不完全な人間という生き物を支えるのが社会

歌代
 敢えて言えばですが、そこが唯一の救いでしょうか。命を絶たれていった子供たちへ、あなたは愛されていたのだと。

石井
 言い方は難しいですが、子供たちに天国で、お父さんとお母さんの子供として生まれて来てよかったですか、と聞いたら、うなずくような気がするんです。そこが一番の矛盾でもあるのですが、そういう不完全な人間という生き物を支えるのが、社会であるはずで。それに対して「鬼畜」と言ってしまったらそこで終ってしまうんですよね。如何に子供たち、もしくは親たちが語っている「私なりの愛」を本当の「愛」にしてあげられるか、それは社会制度、或いは周りの人たちの支えでしかない。そういう人間の不完全さやうまくいかなさを、共有できれば、と感じています。

歌代
 『浮浪児1945―』に、愛すべき家族との記憶がある子たちは、生きていく力も強かった、と書かれていましたよね。
養子縁組されたご家族を取材していると、生後まもなく養子縁組した子が、自分がお腹の中にいた記憶を語り出すことがあるらしいんです。例えば、かつて入水して命を断とうとした母親がいて、その子が「ぼくは海がきれいなところで生まれたよ」と語ったとか。消し得ないものがあるんです。だから逆に言えば、ネグレクトされた子供たちの中にも、親に愛された記憶があればと願う。もちろんそれ以前に、事件にならないようにしていくことを考えねばなりませんが。

石井
 特別養子縁組では、戸籍上実親との親子関係がなくなりますが、今の話のように記憶は消えない。養親が、そのような子供の心をどこまで抱き止められるか、という問題でもありますよね。
僕が面白いと思ったのは、養親に赤ちゃんを引き渡す場に立ち合ったときに、養親二人が、血の繋がっていない子供を見ながら、夫に目元が似ているとか、口元が妻に似ているとか言い始めたんですよ。血が繋がってないのだから、似ているわけがない。けれど、そんな風に似た所を探しながら、親は子供に対する愛情を作り上げていくのだろうと。正直、生まれたての赤ちゃんはお猿さんみたいで、それをかわいいと思えるのは、自分の血を受け継いでいて、顔がどこか似ていて、と、そう思うところから愛情を作り上げていくからかもしれませんよね。特別養子縁組の親たちも、同じように愛情形成しようとする。それは生き物としての切なさでもあり、強い部分でもあると思います。

歌代
 血の繋がりに関わらず、親子を結びつける愛情はやはり家庭の中で時を経て築かれていくものでしょう。
話が戻りますが、残された家族のその後はやはり気になります。他の事件と比べるわけではないけれど、ネグレクトは、被害者家族と加害者家族が別ではない。特に皆川忍の事件は、子供たちが一緒に玲空斗君の遺体遺棄の現場に行っているわけです。両親が逮捕された今、児童養護施設に入っているそうですが、残された子供たちはどう育っていくのかと。

石井
 児童養護施設に入った後まで、行政が後を追ってケアし続けることはしないですからね。また、高野愛の場合は、その母親こそ本当の加害者だと僕は思うのですが、そこに孫たちが今も暮らしているわけです。皆川家の子供たちはバラバラに施設に送られているでしょうから、兄弟姉妹会うことができず、孤独の中で、誰とも共有できない深い傷を抱えて生きて行かなければならない。
「児童養護施設出身者がホームレスになる確率は、そうでない人の四四~八八倍」というデータがあります。児童養護施設がよくないということではなく、そこを離れた後に待ち受けている人生の中で、何らかのケアの体制が必要ではないかということですよね。
本当に、どこまで追っていっても矛盾が解消せず、解決できない苦しみが残る。だから書き手の役目はとにかく、もがきにもがくこと……。書き手のもがきも含めて提示すれば読者を戸惑わせることになるかもしれないけれど、戸惑うところからしか、現実に向き合っていく方法はないのではないかと。

歌代
 ノンフィクションを書くことを、正義や正しさを伝えるという前提で考える時代があったけれど、そんなことは無理だと打ち砕かれますよね。自分自身を刺しながら、血を流しながら追っていくことが、こういうものを書くときの、最後の砦になるような気がします。
個人的な質問になりますが、書いていて苦しいときの、ストレス解消法はあるのですか。

石井
 プールで泳ぐことでしょうか(笑)。辛いテーマを取材しているときだけではなくて、書いていてぐちゃぐちゃになった頭を、泳ぐことでリセットできます。

歌代
 私は毎日走っていますが、走っている時はあれこれ考えちゃうからダメ(笑)。泳ぐ方がいいかもしれませんね。夜、うなされることはないですか。

石井
 それはしょっちゅうです。このような事件を扱っていると、一ヶ月眠れない日が続くことも珍しくありません。でも自分が選んでしている仕事ですから。うなされても、人を知りたいし、気になる出来事を追いたいんです。初めの話に戻りますが、事件が起こったとき、ステレオタイプのカテゴリーで括られ、発信する側も受信する側も、皆があまりに考えない時代になり過ぎました。情報がこれだけあるにも関わらず、全てが薄っぺらで、断片で。その薄い情報に食いついて文句言って、無責任に自分たちでジャッジして。それをやり続けたときに、我々の社会がとんでもない方向に向かってしまうのではないか。だから、複雑で分からないものに、どう向き合って理解しようとするのか、そこにしか問題の糸口はないと思います。その糸口を物書き以外、誰が見せられるのかと、そう思うんです。

歌代
 もやもやすることが大事なんですよね。ベルトコンベアの流れ作業を、ちょっと滞らせること。

石井
 もやもや感を作ることが、ノンフィクションの仕事ですね。
この記事の中でご紹介した本
「鬼畜」の家わが子を殺す親たち/新潮社
「鬼畜」の家わが子を殺す親たち
著 者:石井 光太
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
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