三つの空白 太宰治の誕生 書評|鵜飼 哲夫(白水社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年6月30日 / 新聞掲載日:2018年6月29日(第3245号)

三つの空白 太宰治の誕生 書評
新たな切り口から迫る太宰伝 
飛躍のための準備期間だった「空白」

三つの空白 太宰治の誕生
著 者:鵜飼 哲夫
出版社:白水社
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新潮文庫の累計発行部数第一位に輝くのは漱石『こころ』約六七四万部で、二位が太宰の『人間失格』の約六五七万部だそうである。ちょっと古い二〇一一年の数字だが、大勢は今も変わるまい。
『こころ』がそこまで売れる一因は、必ず高校教科書でとりあげられ、しかも長さの関係で一部しか採録できないため、全編読むには自分で買うしかないからである。夏休みの課題図書にしたり、教科書に載っていない部分を参照するため授業で買わせたりする学校もある。

一方、『人間失格』が課題図書になったり、ましてや教科書に採られたりすることなど絶対にありえないことは、高校教科書編纂者の一人として断言できる。どこを採っても必ずや検定にひっかかる。主人公が人妻と心中して相手だけを死なせ、酒浸りで薬物中毒になるという内容以前に、タイトルだけでもう無理だろう。しかしでは、文科省や学校が決して推薦しないだろう太宰晩年のこの大作がここまで愛されるのはなぜか。

それを知るには、書き手としての太宰の生涯をはじめの方から辿らなければならない。というのは、最後の完成作となった『人間失格』に書き込まれた挿話やモチーフの多くは、ごく早い時期から太宰が繰り返し用いてきたものだからだ。題名も以前に書かれた『HUMAN LOST』の翻訳だし、主人公の「大庭葉蔵」は『道化の華』の主人公の名でもあった。
『人間失格』にはたしかにいわゆる無頼派としての太宰の側面が顕著であり、それが多くの読者を惹きつけるのだろう。しかし、幾度となく自殺・心中未遂を繰り返し、酒や薬物に溺れる悲惨かつ無頼な生きざまだけを『人間失格』に読むのであれば、単純にすぎる。同じ素材は他でも扱われていた。しかし、決して長くはない書き手としての人生において着実に成長を遂げたからこそ、晩年の作品に人気が集中するのだ。

鵜飼が着目するのは、太宰のその作家としての成長が坂というより階段であったという点であり、さらにはその段が三段であったということである。既にあまたある太宰伝に、しかしこの点で新たな切り口から迫っている。

この説に信憑性をもたらしているのは、太宰の執筆時期に三つの空白期間があるということだ。それぞれの空白期を経て、作家は変貌する。年譜を横に置いて作品名を見渡しながら本書を読むと、思わず膝を打つ。概略は以下のとおりである。

中学時代から旺盛な執筆活動をしていた太宰が、旧制弘前高校に入学するや、一年間なんの小説も発表しなかったのが、第一の空白。それはこれまでどおり優等生として勉学の道を究めるか、はたまた作家として立つかを決断するための重要な揺籃期だった。芥川の自死の報に接して、いよいよ文学への道を志すようになった太宰は、同人誌「細胞文藝」を立ち上げ、プロレタリア文学色の強い作品を発表するようになる。

第二の空白は、婚約者がありながら、別の女性と心中を企て、相手だけが死んだ事件のあとから約二年半。この時期を経て、はじめて「太宰治」というペンネームが使用されるようになる。最初の小説集『晩年』が刊行され、われわれの知る太宰が誕生する。

しかし薬物に溺れ、それを抜くために入院を余儀なくされ、さらにその間に妻に不倫をされたことを知って離婚を決めたあと、一年二か月余、ごくわずかな短篇を除いて、また書けなくなる。これが第三の空白である。ここを経て、太宰は『女生徒』などに代表される女性一人称の文体を確立する。これは主人公を自身から切り離すのに非常に有用だった。

その後のあまりに有名な晩年に鵜飼はあまり筆数を尽くさないが、それでも『人間失格』に至った道のりは十二分にわかる。精神的危機を経験しつつ、自己を客観視する目を養うことで、大庭葉蔵は人間として失格しつつもわれわれのヒーローたりつづけているのである。鵜飼が証明したとおり、「空白」は決して「空虚」ではなく、飛躍のための重要な準備期間だったということだ。
この記事の中でご紹介した本
三つの空白 太宰治の誕生/白水社
三つの空白 太宰治の誕生
著 者:鵜飼 哲夫
出版社:白水社
以下のオンライン書店でご購入できます
「三つの空白 太宰治の誕生」出版社のホームページはこちら
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