小原佐和子写真集『神の真庭』 書評|小原 佐和子(蒼穹舎)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年6月30日 / 新聞掲載日:2018年6月29日(第3245号)

ガマとしての久高島 
つらぬく「神聖エネルギー」の交通を映し出す

小原佐和子写真集『神の真庭』
著 者:小原 佐和子
出版社:蒼穹舎
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「神の島」と呼ばれてきた沖縄・久高島の聖域である御嶽の本質を「何もない眩暈」と言ったのは、『沖縄文化論―忘れられた日本』の岡本太郎であった。その「何もない眩暈」をどのように撮るか、写真家の本領が問われることになる。

その大変困難な課題に立ち向かう時、著者は、写真家として、「神の島」の光を極力排して、神の島の影と奥に迫ろうとした。その物深さと昏さが、「神の島」を「神の真庭」として観撮る写真家の解像力となっていく。

「神の真庭」とは何か? それは古来言われてきた神聖なる「斎庭ゆにわ」としての「神の島」とはどのように異なるのか? 「斎庭」から「真庭」までの距離の中に、写真家としての著者の立ち位置とメタノイアがあるのだろう。

沖縄本島南城市知念岬の東方5・3キロ沖に位置する周囲8キロの久高島は、実際は光の島そのものである。久高島には高い山がないので、谷間や河川もなく、すべてが平面的に南島の光の中に露出し、平べったい水母くらげのように浮かんでいる。

だがその光の下に露わになった現実の姿の「奥」に、「神の真庭」を透視しなければならない。そうでなければ、そこは限界集落化が進行している日本列島内のどこにもある単なる一離島である。もちろん、そのような一般事例を特殊事例の個物の風光として切り取って見せるのも写真家のワザではある。

だがそこは、かつて「神の島」と尊称され、島の東方にニラーハラー(ニライカナイ)という常世の国を遠望し往来して歴史と民俗信仰の累積があった。単なる一離島ではなかった。長らく12年に1度行われてきた神女の継承式のイザイホーもその一つであった。だが、その儀礼は1978年を最後に行われてはいない。

2002年から2015年まで、大重潤一郎監督の12年余にわたる記録映画「久高オデッセイ」三部作の製作に関わって来た私は、この30年の間に久高島に50回以上訪れている。そこで、この写真集に映し出された風景や人物がどの場所でどの人かもほぼ特定できる。だが50回もの久高島訪問の中で、著者のような島の見方も切りとり方もしなかった。それをするのは盟友である映像作家の大重潤一郎であり、私はその映像の生成を横から眺めているにすぎなかった。そこには、森羅万象にモノ宿るアニミズムといのちの交歓があった。そして、その大重の眼差しを支える民俗写真家の比嘉康雄の『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書)があった。

大重が死去した後、その久高島をどう見つめ、関わるかを自ら問い続けていたが、そのようなさ中に本書を目の当たりにして、光の島としての久高島には見えなかった薄暗がりの「奥底」に、岡本太郎が言う「神聖エネルギー」の蠢きを感じとった。それは具体的に、猛毒を持つウミヘビ・イラブーの存在に象徴され、集約される。平たい久高島の内部はほぼ空洞であり、ガマ(洞窟)であり、そこにイラブーが集う。そのガマとしての久高島をつらぬく「神聖エネルギー」の交通を「神の真庭」は映し出している。
この記事の中でご紹介した本
小原佐和子写真集『神の真庭』/蒼穹舎
小原佐和子写真集『神の真庭』
著 者:小原 佐和子
出版社:蒼穹舎
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