テロと文学 9.11後のアメリカと世界 書評|上岡 伸雄(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月9日 / 新聞掲載日:2016年2月19日(第3128号)

9・11を通じ「文学に何ができるか」を問う 大きな物語に対抗するアメリカ文学の普遍的本質

テロと文学 9.11後のアメリカと世界
著 者:上岡 伸雄
出版社:集英社
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「文学はジャーナリズムや伝記、歴史などにはできない形で個人を探求できます」(ドン・デリーロ)、「小説の自由さこそ、異種のイメージや運動を編成し直し、再び秩序立て、まとめ上げ、風刺し、主題的につなぐことができる」(ジェス・ウォルター)、そして本書で取り上げられるそれら作家の主張を引き継ぎつぐ著者自身の、「マスコミの発信力と比べ、文学はあまりに無力だ。しかし、一過性のメッセージにはない力を文学はもっていると私は信じている」という思い、さらには、本離れの時代にあって「『読書ゼロ』とはつまり、小説を通じて他者に共感することのない人たちではないか。裏の真実を探ろうとせず、ただ支配者の言うことを鵜呑みにする人たちではないか」という喚びには、9・11をミラーにした説得力がある。

本書の先行研究の代表格とも言えるエセックス大リチャード・グレイの『アフター・ザ・フォール』(二〇一一。本書でも参考資料としてあげられている)では、9・11を題材とした数々の文学作品を、「アメリカ人/彼ら」や「キリスト教徒/イスラム教徒」といった単純な二項対立図式、手近なボキャブラリを使えば「大きな物語」へと還元しようとする文学の外の支配的な動きへの批判として読んでいる。本書においてもまた、都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』から、ワールドトレードセンタービルから飛び降りた男を題材にしたデリーロ『墜ちてゆく男』に係る一文(「アメリカ国家とテロリストたち双方に共通する『大きな物語』へすべてを還元するという暴力に対抗するには、取るに足りない個人の持つ細かなエピソードの一つひとつを、徹底して擁護するしかない」)が引かれているが、そこにこそアメリカ文学の普遍的本質が見いだされよう。

と言うのも、一九八〇年代、“ヴェトナム戦争後の世界観”という大きな物語に日常的で卑近な物語で対抗し続けたのは、デリーロも含むポストモダン系文学とは反目する立場にあるとされたレイモンド・カーヴァーをはじめとるミニマリストたちであった。また、イラク駐留経験がある作家ケヴィン・パワーズの、メディアが発する暴力映像などに人々が慣れっこになっている時代だからこそ芸術作品はそれを新たな形で見せる必要がある、という言葉が本書にはあるが、9・11の十年前、つまり湾岸戦争前後、ブレット・イーストン・エリスがかの猟奇殺人小説『アメリカン・サイコ』を発表した際にもこれとほぼ同じ発言をしていたことが思いだされる。

さて、9・11をめぐるアメリカ文学作品を著者へのインタビューも交えながら検証するというのが本書の基本的なフレームであるが、ジャーナル風で親しみやすい語り口の背後にあるのは、文学に何ができるのか、という切実な問いに他ならない。「文学に何ができるのか」は昨今、日本、欧米を問わず、文学・文化を専門とする大学教員にとって「人文社会学に何ができるのか」と同義である。古典作品の坦々とした原文訳出作業。作品や作家についての汎用化したレポートテーマ。ネットからそれらの資料を何の引け目も感じず援用する学生ばかりでなく、容易に援用資料が見つかる課題に時間を割き続ける教員側にも「人文社会学に何ができるのか」という疑義への責任が突きつけられている。その意味で本書は、「文学に何ができるのか」という芝居がかった問いに気恥ずかしさを一切差し挟まない。否、気恥ずかしいなどとは言っていられない現在である。
この記事の中でご紹介した本
テロと文学 9.11後のアメリカと世界/集英社
テロと文学 9.11後のアメリカと世界
著 者:上岡 伸雄
出版社:集英社
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