写真の映像 書評|ベルント・シュティーグラー(月曜社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月11日 / 新聞掲載日:2016年2月26日(第3129号)

周到な仕掛けを施す 
55の断章からなる切れ味鋭い写真論

写真の映像
著 者:ベルント・シュティーグラー
出版社:月曜社
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本書は55の断章からなる写真論である。原著は2006年の刊行。著者はドイツ文学者で、メディア学、写真論、写真史など幅広い研究領域で活躍するという。各章は、写真をめぐるさまざまなキーワードを章題としており、A(「等価トquivalent」)からZ(「証人 Zeuge」)までアルファベット順に構成される。

この「写真を主題にしたエッセイ集のようにも、写真史についての啓蒙的な手引書のようにも見える」(訳者あとがき)本書には、さまざまな周到な仕掛けがあるように見える。たとえば冒頭の「等価トquivalent」という章。「等価」とは近代写真の父と称される写真家アルフレッド・スティーグリッツが晩年にとりくんだ雲の写真に与えた表題であり、同時に彼が到達した写真観を端的に表象する語である。刻々と変化する雲に反応してシャッターを切ることによって得られたそれらの写真は、「それを見た人が表現されたものの等価物を知覚するほどにまで、何かを完璧に記録」していると彼は考えた。それによって写真は被写体と撮影者の内面、ひいては写真を見る者の内面との等価物となり得る。このスティーグリッツの雲の写真と「等価」という語は、近代的な表象メディアとしての写真の独自性と表現の可能性とを明示する仕事でありキーワードとして、写真史における重要なメルクマールとなったのだ。

したがって「等価」とは巻頭にふさわしい重量級の論題なのである。(余談だがAlfred Stieglitzという名前はAで始まりZで終わるという、まことに象徴的な綴りから成っている。)著者はそうしたスティーグリッツの写真観を「写真、現実、写真家、さらにはまた観察者によって織りなされる諸々の関係が等価になるような、ひとつの映像=表象的な経験空間なのである」と説明する。本書が考察の対象としているのは、まさにこの写真の映像(雲の写真)と写真についての表象(等価という言葉)が織りなす、「映像=表象的な経験空間」でありその歴史なのだ。

さてこの写真史上の重要概念を論じつつ、議論の枠組みをも提示する手際良い始まりの章での表記に表れているように、映像も表象も原語はBildである。書名にも用いられたBild(複数形ではBilder)というドイツ語の単語には文脈に応じて、映像、画像、図像、あるいは映像=表象など、さまざまな訳語が当てられており、原語ではBildであることを明示するために「ビルト」とルビが振られている。あえてこのややわずらわしい方法を訳者が選択したのは、このBildという語の多義性こそが、論考を駆動させているものだからだ。

55の断章はいずれも切れ味鋭い考察であり、副題にあるように各章は「写真をめぐる隠喩」という役割をも与えられている。隠喩とはあるものを別のものに喩えて表現しつつ、それが比喩であることを明示しない修辞法である。つまり個々の断章は「等価」や「証人」といったキーワードを手がかりとした写真論であると同時に、それぞれが写真の「隠喩」(便宜上、副題で明示されてしまっているが)であり、だからそれが集められたこの書物は「アルバム」なのである。

写真についての「隠喩」である個々の断章は、短くともいずれも精緻で示唆に富んだ論考だ。シュティーグラーはそのつど異なる切り口から、写真についてできるだけ精緻で緊密な「隠喩」を構築し、それを並置していく。隠喩とは喩えであるかぎり、構造的に喩えられている対象そのものには到達しない。隠喩の並置とは対象に行きあたらず、その周辺を迂回し続けるということである。仮に世界に対して無限に設定可能な視点のうちの一点から見た光景を、暫定的に映像として定着したものが写真であるとするならば、写真はどれだけ精緻な世界の表象であっても、決して世界そのものには到達しない。本書はそのような写真の隠喩として編まれている。(竹峰義和+柳橋大輔訳)
この記事の中でご紹介した本
写真の映像/月曜社
写真の映像
著 者:ベルント・シュティーグラー
出版社:月曜社
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