身体性に対立させていない文学の「言葉」  四元康裕「シェーデル日記」と村上春樹「三つの短い話」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年7月10日 / 新聞掲載日:2018年7月6日(第3246号)

身体性に対立させていない文学の「言葉」 
四元康裕「シェーデル日記」と村上春樹「三つの短い話」

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六月は作風と傾向の流れが一巡したのか、叙述に練達した実力者たちが揃い帰ってきて妙にホッとした、そういう月だった。

四元康裕「シェーデル日記」(群像)は、前立腺ガン摘出手術後の入院時期を描いた前作の続編として、後日、ガン専門のリハビリセンターに滞在した日々を綴る。これでシリーズも打ち止めらしい、いや、まだ続くのか。節度ある下ネタ、それを哲学的な思索とユーモアによって意識(自我)と存在の問いへと昇華しながら、〈詩の言葉〉の来たるところを見詰めていく感覚の上質さは相変わらず。社会を無視しているわけではない。勃起のリハビリから、「我」という意識のクオリア、そして死をめぐる存在の問いへと繋がる連想の流れを受けてだろうか、後半は、突如「ベイビューホテル事件」(フィリピンでの日本軍集団強姦事件)の話に接続し、死に臨んで圧倒的な性的暴力に走った当事者たちの「意識」の謎めいた有り様(クオリアの暴走?)に思索は及び、静かな異を唱えていく。だが究極のところ、作者の関心はもっぱら、物理学的には「無」である意識と記憶のクオリアと、それを想像する〈詩の言葉〉との関係にあるようだ。おそらく作者にとって〈詩の言葉〉とは、生の実感の諦め・・であり、明らめ・・・なのである。

これと並べたくなるのが、短編三作構成の村上春樹「三つの短い話」(文學界)である。「似る」は粗雑な評言に違いないが、やはりどこか似ている。気づいたのは、双方とも文学の「言葉」を身体性に対立させていないこと・・・・・・・・・・だろう。第一編「石のまくらに」では、人の名前を正しく記憶して(ここではセックスの最中に)呼ぶことを十九歳の「僕」が軽んじる記述がある。村上はデビュー時から固有名を意図的に消してきた作家である。そのことについて批評家があれこれ論じてきた経緯を自覚したうえでの、これは確信犯に違いない。一夜限りの相手となった自称歌人の女は、その本名と共に、今は消滅した。しかし、彼女がくれた短歌は、ことの最中に(彼女が愛していた別の)男の名を大声で発さないよう噛みしめていたタオルの歯形(身体の痕跡)の記憶に貼り付いて、今に残っている。存在の固有性は無化されねばならない。なぜなら、身体に発する〈詩の言葉〉は実在の消滅を糧にしてのみ、生き延びるからだ。村上には、そういう「無」に根ざした禅宗(仏教+老荘思想)的な感覚が昔からあって、その点は少しも変わらない。第二編「クリーム」の幻のピアノ・リサイタルも、見知らぬ老人が禅問答のように示した円のイメージも、また、第三編「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」の「僕」の夢の中で、死した伝説のアルトサックス奏者が演奏した新曲も、すべて現前しえないのだ。だからこそ逆に、存在の残響のような「言葉」が、不在のしるし・・・として微かに生き長らえる。これをただのアイロニカルな感傷主義センチメンタリズムと難じるのは正しくないだろう。ともすると言葉の表象能力を悲観しているようで、その実、その微かな可能性を探っているからである(そこが四元作品に「似る」)。ところで、戦後の文学・思想史の節目を「一九六三年」に置くのが私の研究上の持論だったのだが、数字にフェティッシュな拘りを示す作者によって第三編の「架空のレコード」の発売がその年となっているのは興味深い符合である。折角なので記しておきたい。

町屋良平「愛が嫌い」(文學界)も、別の形で小説の「言葉」の可能性を探っている。前作は高校生を対象にそれを描いたが、今回は、二歳一ヵ月の未だ言葉を発さない幼児の心の動きに寄り添うことで密かにメンタルヘルス・ケアを得ているコミュ障的な二十代男性が主人公である。問題意識の方向といい、文体といい、昔の保坂和志の影響を感じるのは、気のせいか。社会的な人間関係にともなう傷つけ合いのリスクに鋭敏すぎることで、常に一歩身を引いてしまういいひと・・・・の内面を掬い取ろうとするがため、ややかまとと・・・・ぶった文章になるのがどうも個人的には苦手である(が、仕方ないのかも)。前月、言及を怠ってしまった春見朔子の作品も、会社での小さな不適合から社会的コミュニケーションのイップスに罹った人物を描いていたが、今後も、微妙なコミュ障的な違和感を軸にする小説は一定の勢力を持つだろう。近年、「空気」や同調圧力の問題が高じると同時に、それを指摘する対抗言説も徐々に勢いを増している様子だが、小説以上に、その種の「違和感」を可視化できる方法はないのだから。難点は、公園での人妻との接触場面のぎこちなさで、それが彼の社会性のぎこちなさの表れなら良いのだが、俗的興味を引くエピソードを一応差し挟んでおこうという書き手の雑さに映った(ぎこちなさは、性的興味は脱色されながら、微妙にロマンティサイズされてもいる真菜加―友人であり幼児の母―の描き方にも感じる)。ややマイナスの評言に寄ってしまったが、これからの小説の言葉のありようを探る、志の確かな作品なのは間違いない。

保坂和志の名前を出したので、「読書実録〔夢と芸術と現実〕」(すばる)について一言。何度でも繰り返され、尽きずに戻ってくるテーマが、「夢」と文学の関係である。考察の俎上にのせられるのは、カフカとミシェル・レリスの二作。小説という形式が近代の産物にすぎないとはいっても、おそらく詩的言語の発生の最初から、「夢」は「文学的思考」の奥底を支えてきたのである。いまだ文学の存在理由レゾンデートルであることを再認する。ところで唐突だが、カフカが描く夢でしかありえないリアリティ・・・・・・・・・・・・・・の説明を読んでいて、日本文学史において同じ位置を占める作家は、志賀直哉だと確信した(実は両者とも生年は偶然にも同じ一八八三年である)。しかし文学的環境の差によって、こうも外見を違えてしまったと考えると面白い。

夢とカフカの組み合わせとくれば、『変身』の新訳もした多和田葉子の「胡蝶、カリフォルニアに舞う」(文學界)である。荘子の「胡蝶の夢」をもじった題が示唆するとおり、夢の世界が描かれるのだが、そのスタイルは夢的原理である連想作用を駄洒落によって展開する―同誌一月号掲載の短編でもやっていた形(内容的には過去の記憶から甦ってきた女に男が振り回されるパターン)。さらに今回は、アメリカで留学生活をする若者Iを主人公とし、日本人的語感からすればイタいレベルのアメリカン・ジョークを添加するサービスぶり。最初、アメリカに渡った年齢と滞在年数の計算が合わずに腑に落ちなかったが、最後にすべて夢と明らかになる直球の夢落ち小説だった。Iという名は基本的に三人称の頭文字として使われているが、同時に英語で一人称となる二重の呼称である。漱石の『夢十夜』や志賀の夢小説の主人公が「自分」という一人称と三人称の中間形―経験する「私」とそれを見ている「私」との(夢独特の)分裂を体現した人称―だった事実と、その主体性のゆらぎを二言語間バイリンガルの横の関係に置き換えている工夫を考えると、かなり奥深い一遍なのだ。それでこうも軽快に読ませるのは、熟練のなせる技というよりほかない。

戻って保坂の文章の後半だが、レリスの夢に繰り返し現れる「崖」のイメージを中心にめぐっている。そこから再読を促されたのは、松浦寿輝「途中の茶店の怪あるいは秋の川辺の葦原になぜいきなり断崖が現出するのか」(文學界)である。俳人月岡を主人公とするシリーズの最新編だが、今回の物語設定は夢の作家として名高い内田百閒への、特に代表作「冥途」へのオマージュとなっている。土手沿いの道を歩き、生から死への永遠の途上(中有の場)に建つ茶屋に彷徨い着き、帰る方途を見失う結末などは百閒作品そのものだ。しかし本作の面白みは、その夢的情景の中で月岡が詠む句をいちいち自作解説する趣向に預かる部分も大きく、そういう教育的知性を排除しない点では百閒の小説と一線を画してもいる。ともあれ、月岡は最後、茶屋の中から一転、「断崖」に臨んでいる自分を見出すのだが、このイメージの出所が思い当たらなかったところで、レリスの話を読んで合点がいったわけだ(元ネタを見つけたと言いたいのではない)。夢の世界は、意識の働きを箱庭化して剥き身にしたような場である。通常の意識に立ち現れる認識論的な「世界」の拡がりにほんらい限界はない。が、あらゆる抽象(非在)と具象(存在)が同一の次元で行き来しうる夢の「世界」で、その臨界の立ち会いが実現するのは不思議ではない。その表象がおそらく「断崖」なのだ。漱石の『夢十夜』の最後の第十夜に「絶壁きりぎし」が現れるのも同じ理由である。〈詩の言葉〉を操る人が「世界」を写生しながら、知らず虚実不可分になり、その「世界」の果て・・を目の当たりにしてしまう。見事な落ちである。これで、この「月岡もの」も打ち止めだろうか、いや、まだ続くのか。
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