虚構性が露呈する時映画は最も輝く  ラーフル・ジャイン「人間機械」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

映画時評
更新日:2018年7月10日 / 新聞掲載日:2018年7月6日(第3246号)

虚構性が露呈する時映画は最も輝く 
ラーフル・ジャイン「人間機械」

このエントリーをはてなブックマークに追加
ラーフル・ジャインのドキュメンタリー『人間機械』は機械と労働を描く。労働者も労働する機械だとすれば、これはまさに機械についての映画である。舞台はインドのグジャラート州にある繊維工場だ。多数の機械が大きな音を立てて作動し、大勢の従業員が長時間の低賃金労働を強いられ、子供たちも働く。

主観的な世界では、様々な機械は道具として他の道具と連関し、この連関を通じて最後には必ず主体に結びついている。ある短髪の従業員が、自分は誰にも搾取されておらず、自由意志で働いていると言い張る。彼はまさにこの主観的な世界を生きている。しかし、この世界の背後に資本主義社会の生産と流通の客観的な網があり、諸機械だけでなく労働者たちも道具としてこの網に組み込まれている。より若い別の従業員は、神から手を貰ったのだから働かねばならないと言って、日に一二時間働く。神に基づく自然のようにみなしているとはいえ、この男のほうが生産の網に意識的なのだ。けれども、この網のさらに背後に、諸機械があらゆる組織化を逃れて非有機的な生を生きる地平が存在する。

映画は説明を省くことで、それぞれの機械や労働者の作業を生産の網から切り離す。まるで諸機械の運動や音響に身を委ねて、それらの非有機的な生を見出そうとするようだ。そうしてカメラが撮影機械として工場の諸機械と秘密の仕方で結びつき、機械の新たな世界を作り出す。従業員も労働機械としてその一員となる。ただし、この映画は小田香の『鉱 ARAGANE』のように徹底して機械の側に立つ訳ではない。また、ワン・ビンの『苦い銭』のように労働者の生活に寄り添う訳でも全くない。組合の不在を語る従業員や思わせぶりな屋上のスローモーションが、極端を嫌うこの作品に穏やかな着地点を用意するかのようだ。だが、『人間機械』が見事なのはこうした場面のためでは断じてない。労働者たちが布地の山の上に倒れ込んで眠り、別の労働者が歌う。この突出した場面こそが、作品を真に優れたものにしているのだ。歌う男のアップの表情も声の響きも素晴らしく、生産の網を逃れるような生命の輝きが刻印されている。

歌の場面に比べれば、経営者の階級に属する撮影者が労働者たちに詰め寄られる終盤の場面も、特に目新しくはない。だがその時、労働者の一人がスマホを撮影者に向けるのは心に残る。切り返しショットの存在が示されているからだ。社会問題を語る際には切り返しが、つまり両サイドの視点が必要とされる。しかし、一台のカメラによるドキュメンタリーの撮影で切り返しは原理的にありえない。複数のカメラによる撮影であっても、切り返しは映画の虚構が露呈する特権的な瞬間である。虚構の一形式であるドキュメンタリーが自らの虚構性とどう向き合うかが、ここで問われる。例えば、フレデリック・ワイズマンは切り返しの虚構性を躊躇しない。

歌の場面を思い出そう。男が布地の上で眠り、その場で聞こえない別の男の歌声が重なる時、映画は至福の瞬間を刻む。虚構性が露呈する時に、映画は最も輝くのだ。『人間機械』が感動的なのは、労働問題が誠実に描かれているためではない。機械の不気味な諸相が示され、またその狭間で男の表情と歌声が虚構としてこの上なく映画的な瞬間を生むからだ。

今月は他に、『ミク、僕だけの妹』『寝ても覚めても』『ダークサイド』などが面白かった。また未公開だが、アラン・ギロディの『垂直のまま』も良かった。
このエントリーをはてなブックマークに追加
伊藤 洋司 氏の関連記事
映画時評のその他の記事
映画時評をもっと見る >
芸術・娯楽 > 映画関連記事
映画の関連記事をもっと見る >