ナディア・ブーランジェ 名音楽家を育てた “マドモアゼル” 書評|ジェローム・スピケ(彩流社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月16日 / 新聞掲載日:2016年3月11日(第3131号)

気品に満ちた一冊 
音楽史における影の仕掛け人の波乱に満ちた生涯

ナディア・ブーランジェ 名音楽家を育てた “マドモアゼル”
著 者:ジェローム・スピケ
出版社:彩流社
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「マドモアゼル」という肩書きで、愛され、尊敬され、畏れられた…。本書の主人公、ナディア・ブーランジェのこと。20世紀の西洋クラシック音楽史に限りない功績を残しながらも、スター作曲家や指揮者のように華やかな表舞台に立つだけではなく、むしろ少なからぬエネルギーを「教育」に割くことによって、音楽史における影の仕掛人となった存在。

ブーランジェに関する本は、欧米はもちろんのこと日本においてもこれまで何冊か出版されており(評者も自著の一章を彼女に充てたことがある)、扱われる対象として別段珍しいわけではない。それでもこの本は、ユニークな一冊だ。「まえがき」を読めばすぐに分かる。「これは伝記ではない。伝記に必要な詳細はいまだベールに包まれているからだ。(…)本書は、ナディア・ブーランジェという、ほんの100年前に生まれた伝説的人物のことを、数人の登場人物といくつかの出来事をもとに、鮮やかに回顧してゆく試みである。」

じっさい著者自身が、ブーランジェのすぐそばにいた経験の持ち主だ。だからこそ…著者が直接に居合わせたわけではない数多くのエピソードも含め…彼女の生涯を語るということはすなわち、自身が接した彼女との思い出を語る作業に他ならなかった。

それにしても、ブーランジェの生涯はきわめて波乱に満ちている。圧倒的な年の差婚だった両親、親子ほど年齢の異なるピアノの師との恋、有名音楽家や著名な文化人との交友や決別、病弱だったにもかかわらずきわめつけの才能を具えていた妹リリとの関係…。前半生だけを見ても実に様々な出来事が書かれており、しかも彼女の生涯そのものが二度の世界大戦に翻弄されたことも、あらためて浮き彫りにされてゆく。

しかも、女性音楽家の存在が当たり前となった現在とは異なって(とはいっても、楽器によってはまだまだジェンダー的な排除理論が今なお働いているというのが実情だろうが)、ブーランジェが頭角を現してきた20世紀初頭は、音楽界において女性が活躍できる場は非常に限られていた。そのような時代の中で、彼女はみずからの道を切り拓くべく奮闘し、作曲はもちろんのこと指揮者としても活躍の場を広げてゆくわけだが、凡百の書き手であれば大声で強調しそうな苦闘の軌跡が、本書ではむしろ淡々と扱われている。

たとえば第二次世界大戦の最中に、彼女がアメリカへと亡命する下り。「このフランスからの逃亡という決断は、いろいろな意味において驚きであった。第一にナディア・ブーランジェは性格的に権威主義的なところがあったが、逆説的な意味で優柔不断そのものだった。一旦、決断すればその判断は揺るぎない。しかし多くの場合、できるかぎり決断を先延ばしし、プレッシャーの中でもう他に手がないというときになって初めて動くのだった。」

もちろんこうした著者ならではの見解は、有名人の隠された顔を暴露し、それによって対象を貶めようとする悪意ある意図から出ているものではあるまい。むしろ、ブーランジェという人物を心から尊敬しているからこそ、自らが知っているその愛すべき素顔を言葉によってとどめておきたいという願いの現れなのだろう。何しろ著者にとってブーランジェは、ファーストネームで「ナディア」と呼ぶべき人なのだから。

といっても親しさあまって、対象に向けられたラブレターが徒らに書き連ねられることもない。かぎりなく「伝記」に近い内容であって、しかし詳細な記録に接することができないからこそ、それを「回想」と言い切る潔さ。ブーランジェの生き方と同様、そこにはヨーロッパの文化人の間に長い年月を経て形成されてきた気品が感じられる。

そんな気品に満ちた一冊が、原著の発表から20年ほどを経て、今の日本で出版されたことの意義はかぎりなく大きい。淡々とした中に、常に背筋をしゃんと伸ばし続けているかのような語り口の翻訳も、本書の存在をより確かなものにしている。(大西穣訳)
この記事の中でご紹介した本
ナディア・ブーランジェ 名音楽家を育てた “マドモアゼル”/彩流社
ナディア・ブーランジェ 名音楽家を育てた “マドモアゼル”
著 者:ジェローム・スピケ
出版社:彩流社
以下のオンライン書店でご購入できます
「ナディア・ブーランジェ 名音楽家を育てた “マドモアゼル”」出版社のホームページはこちら
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