アナトールの墓のために 書評|ジャン=ピエール・リシャール(水声社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月16日 / 新聞掲載日:2016年3月11日(第3131号)

死を完遂させようとする試み 
あまりに「マラルメ的」で哀切な詩人の姿

アナトールの墓のために
著 者:ジャン=ピエール・リシャール、ステファヌ・マラルメ
出版社:水声社
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マラルメの友人宛て書簡といえば、いくつか有名なものがあり、詩作に対する彼の姿勢を表すものとして、詩作品と同じようによく論究される。もっともよく引かれるのは、「幸いなことに、僕は完全に死んだ。[…]いまや僕は非個人的である。もはや君の知っていたステファヌではない」という、「精神的危機」を脱したときに書かれたとされるアンリ・カザリス宛ての手紙と、〈書物〉の構想について語ったヴェルレーヌ宛ての書簡だろう。いずれも〈詩人マラルメ〉の姿にいかにも相応しく、日常世界を超脱した純粋な〈作品〉探求の審級があることを感じさせる。たとえ現実には英語教師で糊口を凌いでいたとしても、それは仮の姿であって、本来の詩人はただ〈作品〉探求に専心しているのだ、そのように感じさせる何かがそこにはある。ところがその同じ詩人が、本書によれば、友人に次のような手紙を送ってもいた。「私たちのかわいそうな息子のために苦悩し、また物質的な余裕も失ってしまったため、文学に関しては、多少の覚書を手早く残すぐらいのことしかできません」。「ええ、私はほんとうに茫然自失の態で、吹きやまない恐ろしい風にさらされている人のような心地です。[…]しばらく仕事はできません」。

念のために付け加えれば、ここでいう「仕事」とは、英語教師のことではない。詩作のこと、「文学」のことである。あのマラルメが、いまは「文学」はできない、と洩らさずにはいられなかったこと、その理由が愛息の重病だったこと、そしてその息子がまもなく本当に亡くなってしまったこと、本書の最初の章で突きつけられるこれらの事実には、ただ胸が締めつけられる。率直に言って、第一章は読み進めるのが辛い。しかし、マラルメはそこから這い上がろうとする。何によってか。やはり「作品」の力によってである。その姿を描き出すのが本書である。

本書は、マラルメが息子アナトールの死後ほどなく、この出来事の「影響を自らのうちで制御するために」書いた「『アナトールの墓』のための覚書」に、『マラルメの想像的宇宙』で知られる主題論批評の泰斗、ジャン=ピエール・リシャールによる解説を付して構成されている。先に「第一章」と述べたのは、あくまでリシャールによる五章構成の解説「ステファヌ・マラルメとその息子アナトール」の内でのことである。とはいえ、訳者あとがきで丁寧に説明されているように、手稿に先の表題を付したのもリシャールであり、リシャールの解説の方が先に置かれ、分量的にも半分以上を占めているため、本書はマラルメの書物というよりリシャールの書物という趣が強い。リシャールによれば、当該の手稿には形式的な配慮がまだあまり見られず、作品の「下書き」とさえ考えられず、あくまで「書かれる可能性のあった作品のための覚書」であるという。だとすれば、私たちの大半にとって、手稿はリシャールの読解なしには「読みえない」ものだっただろう。リシャールの分析のおかげで、読みえない断片が読めるものになった。いや、読めるどころではない。マラルメの他の詩作品を知悉するリシャールの分析によって、断章のなかの語と語が呼応して正当な象徴的連関を結び、イマージュを成して浮かび上がる。訳者あとがきで述べられているとおり、分析は実に見事で、つねに美しく着地する。そしてマラルメの専門家によるその訳文は、緻密な分析を端正な日本語に移し換えている。

リシャールの分析が全体として浮かび上がらせるのは、「作品」の力によって息子の死を「体験」から引き離し、劇に変えることによって――もちろんその劇は単純ではなく、マラルメたる「父」はさまざまな葛藤に引き裂かれるのだが、全体として見れば――抽象化し、意味あるものとして能動的に引き受けて完遂させ、息子を永遠化しようとするマラルメの意志である。言い換えれば、現実を同化吸収して喪を完遂させる精神的エネルギーとしての「作品」への意志である。リシャールはその分析において、いくども「マラルメ的」という語を用いている。彼が覚書の分析を通して引き出そうとするのは、「マラルメ的」なマラルメなのだ。この場合、「マラルメ的」とは、「絶対を希求」し、現実の死を「作品」によって昇華させ、意味あるものとする弁証法のことである。この弁証法はおのずとアブラハムのイサク供犠を連想させるが、驚くべきことに、覚書には実際に「供犠」の主題が登場する。「父」は――死を信じない「母」と対照的に――死んだ息子を自ら「供犠」に捧げることで、死を能動的なものとして自らの手に取り返し、かくして喪の営みを完遂しようとする。リシャールにとって、この狂気すれすれの弁証法的な試みは、マラルメ本来の「作品」への意志に通じるものであり、ゆえに「マラルメ的」である。

けれども、第一章の書簡を読んだ上で第二章以下の分析を読む者は、いかなる残滓も残さずに現実を「作品」へと昇華することが本当に「マラルメ的」であるのかについて、いささかの疑問を抱かずにはいられないだろう。「作品」は本当に現実の死に、最愛の息子の死に打ち勝てるのか、などという問いは立てるのも愚かである。いかにしても残る現実があるからこそ、あくまで括弧付きの「マラルメ的」な喪の営みがなされずにはいられないのであって、そうせずにはいられないことの方が、本書の読者にとってはあまりに「マラルメ的」で、本書によって浮かび上がる詩人の姿は、だから、いっそう哀切きわまりない。(原大地訳)
この記事の中でご紹介した本
アナトールの墓のために/水声社
アナトールの墓のために
著 者:ジャン=ピエール・リシャール、ステファヌ・マラルメ
出版社:水声社
以下のオンライン書店でご購入できます
「アナトールの墓のために」出版社のホームページはこちら
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