チェーホフ 七分の絶望と三分の希望 書評|沼野 充義(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月18日 / 新聞掲載日:2016年3月25日(第3135号)

時空を超えた幸福な対話
状況と作品の微妙なズレや差違に焦点を絞る

チェーホフ 七分の絶望と三分の希望
著 者:沼野 充義
出版社:講談社
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ロシア文学を代表する作家がドストエフスキーとトルストイであることは、ほぼ定説と言って良いだろう。大正から昭和にかけ、日本の知識人にとりわけ深刻な影響を及ぼしてきたのも、この二人である。

だがその一方で、チェーホフの人気も衰えを知らない。かつて広津和郎や井伏鱒二が傾倒していたその短編小説は、今日でもなお浦雅春、松下裕、本書の著者ほかによって、新訳が続々と刊行されている。『かもめ』他の劇も、現在に至るまで、各地でくり返し上演されている。

以前は滅びゆく古き良き時代への挽歌として読まれ、叙情性が強調されることの多かったチェーホフだが、この作家の作品と生涯には、そのような解釈では説明できない多くの謎、ノイズが含まれている。たとえばチェーホフが『桜の園』を「喜劇」と呼んだのはなぜかという問題である。

日本では鈴木忠志ほかの小劇場運動の演出で強調され、中村雄二郎や浦雅春らの研究者が指摘してきたことだが、チェーホフの作品には、じつはディスコミュニケーションやグロテスクなど、20世紀の不条理文学・演劇を先取りしたかのような要素が少なくない。だがその一方で、叙情的な哀愁のドラマとしての解釈も、日本のみならずロシア本国でもなお根強いのである。このように、滅びゆくものへの「白鳥の歌」とグロテスクや不条理という、一見対照的な両極を併せ持つチェーホフという作家を論じ切るのは、容易なことではない。

本書においてチェーホフをめぐる様々な謎のすべてに回答が見いだされ、ノイズが読み解かれているわけではない。と言うよりも、著者はそもそも一義的な回答を提示し、チェーホフというこの複雑な作家を単一的な像に収斂することを意図していないのである。

本書は「子供」「ユダヤ人問題」「オカルト」等々の主題ごとに章分けされているが、各章はいずれもチェーホフのテキストを出発点としつつも、それぞれの主題をめぐる当時のロシアの状況へと話が展開していく。著者の議論は、作品や書簡といったテキストの内と外を自由に往還し、ときには現代思想とひそかに共鳴しつつ、あるモチーフに関する世界文学の系譜にまで及んだりもする。たとえば第一章「失われた子供時代」では、『ワーニカ』や『眠い』といった、まだ小さいのに働きに出ている子供を主人公とした短編から説き起こして、一八六一年の農奴解放令以降にロシア社会で急速に進行した農村の荒廃、人口の流動を語り、短編の主人公たちが置かれていた状況を明らかにした後、さらに児童虐待が当時大きな問題となっていたことを、チェーホフの作家デビューと入れ替わるようにして亡くなったドストエフスキーの言説をも参照しつつ指摘している。だがそれと同時に『ワーニカ』から「届かない手紙」という主題系を取り出し、コミュニケーション不在という現代的な問題が含まれていることを示唆してもいるのである。

特筆すべきは、多くの場合、著者の語りがテキスト外の状況やモチーフを逍遥した後、テキストそれ自体に回帰していることだ。文学作品を時代や社会の鏡と見なし、作品内の諸要素を、それを囲繞していた状況のみによって説明することは、古典的な下部構造論に陥る危険を伴う。作家が状況を自分なりに理解し、自作品に反映した際の屈曲や偏光が、視野から抜け落ちてしまいがちになるからだ。そうではなく、著者はあくまでも状況と作品の微妙なズレや差違にこそ焦点を絞り、外から押し寄せてくる出来事をチェーホフというプリズムがどのように屈曲させたかに光を当てている。

このような手法は、いかなる主義や思想も自分からは発することなく、人間と社会の微細で冷徹な観察に徹したチェーホフという作家に、いかにもふさわしい。本書は、長年にわたってさまざまな思潮と関わりながらも思考の自律を保ち続けてきた沼野氏と、チェーホフとの時空を超えた幸福な対話の書だ。
この記事の中でご紹介した本
チェーホフ 七分の絶望と三分の希望/講談社
チェーホフ 七分の絶望と三分の希望
著 者:沼野 充義
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
「チェーホフ 七分の絶望と三分の希望」出版社のホームページはこちら
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