立花隆インタビュー(聞き手=緑慎也)  人は死といかに向き合うべきか 『死はこわくない』(文藝春秋)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年8月3日 / 新聞掲載日:2016年1月29日(第3125号)

立花隆インタビュー(聞き手=緑慎也)
人は死といかに向き合うべきか
『死はこわくない』(文藝春秋)刊行を機に

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死はこわくない(立花 隆)文藝春秋
死はこわくない
立花 隆
文藝春秋
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人は誕生以来、「死」と向き合い、「死後」の世界について考えを巡らせてきた。すべての宗教もまた、「死後」の世界をイメージすることが、その根本にあった。脳死や臨死体験など人の死をテーマにして多くの著作を著してきた作家・立花隆氏が『死はこわくない』を上梓した。がん、心臓手術を乗り越え、七五歳となった「知の巨人」が到達した死生観とはどのようなものなのか。お話しをうかがった。聞き手はサイエンス・ジャーナリストの緑慎也氏にお願いした。 (編集部)
第1回
自分の存在が消える? 高期高齢者になったからこそ至り得る感情

縁 慎也氏
緑 
 僕は、この本の第一章に収録されている「死はこわくない」(『週刊文春』二〇一四年一〇月三〇日号~一一月一三日号掲載)の取材・構成を担当しているんですが、本のかたちになって改めて読み返してみても、自ら思い入れの強い本です。つまり立花さんの言葉を借りてはいるんですけれども、自分自身でも言いたかったことを入れ込みつつ原稿まとめを進めていったんですね。今回の本のタイトルにもなった『死はこわくない』ですが、おそらくこうした思いは、人の心の中で常に揺れ動くものだと思います。現在は死に対してどのように考えていらっしゃいますか。
立花 
 死はこわくないという思いは、今もまったく変わりません。むしろ死がこわいと思う人は、一体何がこわいのかという気がしますね。生前悪いことをすると、死んだ後、地獄に落ちて、そこで鬼に責め立てられるとか、血の海で泳がされるとか、そういう懲罰的な死後のイメージを持つ人が、昔は結構いました。だから、なんとなく死がおそろしいものだと考えられた。しかし、そんなふうに考えている人は、今はほとんどいないに等しいんじゃないか。現代社会と近代以前とで一番違うのは、そうした神話的な死後の世界観が、社会一般から跡形もないほど消えてしまったことにあると思います。たとえばその辺りにある神社仏閣に参拝している人たちに向かって、「あなたは地獄の存在を信じますか?」と聞いたとしても、「信じます」なんて答える人はほとんどいないでしょう。もちろん死後の世界について語られた本も売られているし、一定の読者もいますから、極めて稀に地獄を信じている人もいる。しかし、ごく少数です。僕にしても、形而上学的な意味での死へのおそれはあります。若い頃に出会った小倉志祥先生(当時東大助教授)の言葉を、本にも引用していますが、「明日起きたときに自分がいなかったらどうしようと思うと、怖くて眠れなくなる。正直いって、今でも死は怖いですよ。自分というものがなくなっちまうってことは悟りきれない」。そうした思い、自分の存在が消えるということからくる恐怖が今の自分にあるかといったらありません。若いときはあったかもしれない。しかし今そんなの当たり前と思います。死んだらみんな存在が消えるんです。僕があなた方若い人たちと違うのは、歳をとっていることであって、この年齢に達したからこそ至り得る感情があるんですね。後期高齢者になる前となった後では、考え方がものすごく違ってきます。七〇歳を超すと、その人の頭の中にできあがるイメージの世界が、それまでとはまったく変わってくるわけです。若い時には「死はこわくない」なんていう感覚は全然持てなかったと思います。逆に言うと、若い人たちが死を恐怖していないとしたら、それはおかしい。自分の存在が消えてしまうということは、普通に考えれば、こわいことでしょう。でも、僕らはそうではない。年齢からくる理由が半分以上だと思いますが、死に対するこわさはなくなりました。そもそも、死について考えなくなりました。死はおそれるべきものであるとか、おそれてしかるべきだとか、そういう感じがなくなった。
緑 
 二〇一四年九月に放送されたNHKスペシャル「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」で、立花さんは案内役を務められました。あの番組でも、ある意味では「死はこわくない」というメッセージが出されていたんじゃないかと思います。これまでならば宗教などが扱ってきた臨死体験を、科学的な側面から取り上げ、死をあまりこわがらずに考えていこうというメッセージが込められていました。人間はうまく死ねるようにできているということ。気持ちいい気分の中で死を迎える可能性が、臨死体験には表われており、それが生物に組み込まれた仕掛けとしてあることを科学的に実証しようとしたわけです。そうすると、宗教の面から言っても科学の面から言っても、結論的には同じで、死はこわくなくなる。番組のこの結論部分に驚かれた視聴者も随分いたようです。
立花 
 人間の意識というものが、どういうふうに生じ、形成されるのか、そのことがはっきりとではないけれど、解明されつつあることを番組では紹介しました。脳や脳が作る意識について、あるいは臨死体験について、科学的に明らかにされてきている。かつて脳科学は、人間の意識というものを対象にしながらも、学を形成することはできなかった。そういうことを学問としてやることはほとんど無意味であり、たとえやっている人がいたとしても、わかるはずのないことをやっている人のように考えられていました。真面目な学者であれば、決して参入しようとしなかった分野です。つまり学者というのは、論文を書けなければいけない。けれども「意識」なんていうはっきりと証明できないものを対象にしていたら、きちんとした論文が書けるはずがない。科学で解明してもわからない領域であり、今でも「意識の科学」みたいなことを真正面からやっている人はほとんどいません。そんなことをやったとしても業績になりませんから、そこに立ち向かうべきではないというのが科学の常識です。
緑 
 今回の本でも触れられているように、脳科学者のクリストフ・コッホが「意識研究」の分野に果敢に踏み出し、一定の成果を上げているわけですね。彼の書いた『意識をめぐる冒険』も一昨年翻訳が刊行されました。
立花 
 それは、学問の長い歴史から見れば、本当につい近年のことです。コッホのような人が出てきて、今では意識研究の学会まで作られている。意識研究はいわゆるサイエンスとこれまで考えられてきたものとは少しずれている。つまりサイエンスと言っても、現在は相当幅広くなっていて、心理学的な領域全体をサイエンスと考える人が一方にいるわけです。逆に、そうではないと思う人も片方にいます。普通に定義すれば、サイエンスでは、しっかりとした方法論に基づいて行なわなければいけない。たとえば従来からある生物科学とか物理科学を本当のサイエンスだととらえる。いわば伝統的なサイエンスですね。意識研究は、それとはちょっと違います。意識研究や心理学的な科学は、半分ぐらいは文学に近いところがありますから、実は相当いい加減なことが言えるし、実際にみんな言ってきている。フロイトの言っていることなんて、半分以上がおかしい。今読めば、この人、頭がおかしいんじゃないかと思いますよね。フロイトのやっているのは心理学じゃなくて精神分析学であり、また別の学問に区分けされるものですが、これは相当怪しい世界だと考える人も多いと思います。
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