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更新日:2018年7月17日 / 新聞掲載日:2018年7月13日(第3247号)

軍縮の余波を受け廃止となる午砲

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本年春衆議院で所謂軍縮案なるものの可決せられ、当局は此の決議に基き縮小整理に着手しつつあり、ここに示す写真も軍縮の余波を受け愈々廃止となるべき午砲で(大阪城内)国民生活からお別れとなるものである。(『写真通信』大正11年9月号)

毎日、正午になると、「ドン」と大砲が鳴る。市民は、この響きで正確な時間を知った。 

「午砲」という。東京では宮城(皇居)内に置かれた大砲が、大阪では写真にあるように大阪城の天守閣台に置かれた。陸軍が管理した。

起源は明治にさかのぼる。幕末にも鳴ったとも言われるが、明治三(一九七〇)年九月二日(太陽暦十月十五日)の政府の達しで始まった。

大砲を時報として伝えるのは、一九六〇年代に香港で始まったというが、いっせいに正確な時刻を庶民に知らせることは、江戸時代までにはほとんどなかった。

江戸時代の日本人にとっての時刻は不定時法と呼ばれるもので、夏と冬の一時間の長さは違っていた。

一日が二十四時間に等分化されている定時法も、すでに知られていて、両方を取り入れた時計も作られていたが、市民が定時法の同じ時刻を、いっせいに知るようになるのは、明治初めからになる。

「ドン」と呼ばれた大砲が定時に鳴って、正確な時刻を響かせた。明治三年九月、太政官からの達しによって各地で号砲で時刻を知らせるようになり、最初は一日三度、明治七年からは正午だけになった。

この写真は、「ドン」が廃止されるというニュースである。『写真通信』大正十一(一九二二)年九月号に掲載された、大阪城に置かれた号砲だ。

第一次大戦が終わって、戦勝国は戦艦増強など軍拡競争に入るが国家予算への負担増になったために、この年二月にワシントン軍縮条約が結ばれた。

これを受けて、軍事費の縮小が図られて、大正十二年度の陸軍予算は三千万円を節約した(『大阪朝日新聞』大正十一年八月二日付け)。

時砲の廃止は、この余波で、全国で実施されることになり、東京では宮城(皇居)内の時砲が停止になった。火薬を節約するというのだ。

軍縮の対象になったのは、「ドン」だけではなかった。

「軍備縮小計画により、第四師団軍楽 隊は廃隊と決まった。大正十二年三月二十五日、永年にわたり演奏を続けてきた天王寺公園奏楽堂において「告別演奏会」を開いた。全十曲のプログラムの最後はJ・ハイドン作曲の交響曲第45番「告別」。 奏者が一人ずつ退場してくという定番の演出もつけて、つめかけた市民に別れを告げた」(関西吹奏楽の祖 陸軍第四師団軍楽隊 塩津洋子)

軍楽隊の廃止は悲しいが、「ドン」は市民生活に定着していたからだろう、昭和にはいって、正午にサイレンが鳴らされるようになる。こちらは、戦後まで続いて、北関東の小都市で育った筆者も、昭和三十年代まで「お昼のサイレン」が昼食の合図だった記憶がある。

さて、大阪城の大砲はいまも健在で、大阪城内で展示されている。「全長三十四・八メートル、砲口の内径二十センチ、外形四十センチ、先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種。一八六三年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎くだらせいじろうが製造し、大阪天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたと伝えられています」(大阪市ホームぺージ)

東京のドンも健在。どちらも、使われてもいないのに、戦時下の金属供出令を免れたのが、不思議でもある。
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