ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家 国家・戦争・資本主義 書評|ギヨーム・シベルタン=ブラン(書肆心水)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年7月14日 / 新聞掲載日:2018年7月13日(第3247号)

DG政治哲学への有益な入門書 
ドゥルーズの哲学を七つの逆説を軸に描き出す

ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家 国家・戦争・資本主義
著 者:ギヨーム・シベルタン=ブラン
出版社:書肆心水
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今日、政治的思考はどうなっているのか。一九六八年、革命の担い手がプロレタリアからマイノリティへ移ったと言う。そして一九八九年あるいは一九九一年、冷戦が終わった。社会主義が消え、資本主義が残った。政治的理念としての〈平等〉が潰え、〈自由〉が残った。以後〈グローバル化〉という語が思考を規定する。そしてグローバル化がリベラルと、反グローバル化がナショナリズムと組み合わされたり、リベラルとマイノリティが同じ側に位置づけられたりする。これが今日の政治的思考を規定する対立軸である。

この対立をドゥルーズ/ガタリ(以下DG)は斥ける。グローバル化とナショナリズム、あるいは資本と国家は相容れるからだ。これを看過すると〈DGはミクロ政治におけるマイノリティ擁護を説いた〉的な言説が流布する。問題はマクロ政治におけるマイノリティの位置である――これがシベルタン=ブラン氏による著書の要諦であり、主な参照先は『資本主義と分裂症』二巻本(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)である。

国家と資本の連係を簡潔に見ておく。先ず国家は特異な時間性を持つ。国家を規定しようとすると国家はつねに先回りして逆に私たちの思考を規定する。それは〈つねに先行するもの〉である。その意味で国家には「〔……〕まだ実在しないにもかかわらずすでに実効性を有するものを先取りし、すでに起こったものの上に回帰的作用を及ぼすような時間構造〔……〕」(本書四二頁、以下同)がある。国家がないとされる社会にも国家は潜伏し、作用している。対象に作用する以前に、先ず作用を被る対象そのものが構成される。自作自演による捕獲である。余剰労働/必要労働の区分、土地の良し悪しの比較、税制による貨幣と財およびサービスの等置(六七―七〇頁)を通して、労働・土地・財が国家によって生じ、捕獲される。

近代法治国家は資本蓄積の運動と合流する(八四頁)。「剰余価値の生産以外の目的を持たない」資本主義には、「おのれ自身の蓄積過程に課される外的な限界が一切存在せず、もっぱら内的な限界ないしは「内在的」な限界しか持たない」(一六八頁)ため、資本蓄積という「この過程は、おのれ自身の内在的な制限(危機=恐慌)を産出することによってはじめて、あらゆる外的な限界を粉砕する」(一六九頁)。国家と資本の合流地点(資本主義社会)においては、生産諸関係その他の複雑化によって労働/剰余労働の差異が区別できなくなり、剰余価値の在処を客観的に局限化することができない(一九二頁)。資本主義社会とは生と労働が限りなく接近した抽象的な管理によって人びとが支配される社会であり、そこでは〈自由〉と〈奴隷〉という二つの言葉の意味が交じり合い、曖昧化する。国家と資本が対立するかに見えるのは、国家が利潤率の傾向的低下を抑止し、資本を吸収し、過剰資本を破壊し、労働力の価値を低下させ、新たな資源を獲得し、新たな市場を開放して労働力新予備軍をプロレタリア化するからである。国家によるこの資本への掣肘(内在的制限の産出)が、逆に資本蓄積の基盤を保証しつつ拡大させる(一九五頁)。ゆえにグローバル化/国家は偽りの対立である(二六八頁)。

国家と資本の連係は、冷戦期、西側先進諸国では労働者を厚遇し、その後、労働者は過剰人口として包摂されつつ排除されるようになる(二五九頁)。排除は一九六八年に淵源するだろう。厚遇と排除は対立しない。いずれも資本蓄積を支える「公理」の操作だからである。

国家と資本、双方を斥けるにはどうすればよいのか。資本主義の加速と徹底から解放は生まれない(二四五頁)。DGに倣い、国家に対して世界的資本蓄積における生産関係の発展条件に圧力をかけるよう働きかける一方で、この抑圧に対する国家の無能力を際立たせるという「公理レベルでの闘争」を本書は説く(二六五―六六頁)。それが「革命」を指示する限りで、このふるまいは矛盾しないだろう。

しかし、例えば小泉義之氏も指摘する通り、『資本主義と分裂症』でもDG最後の共同作業『哲学とは何か』でも、「革命」の内実は定かではない。本書にも引かれているように(二三三頁)、「革命の未来を考えてはならない」とさえDGは述べる。ここでは触れなかったが、プロレタリアとマイノリティは対立しないという本書が提起した刺激的議論(二五〇―二五一頁)を考慮してなお、「革命」の内実は定かではない。そもそも「革命」の担い手である人民が欠如しており(二八四頁)、マイノリティの役割はこの欠如そのものの告知でしかない(二八四頁)。来たるべき革命を本書は規定していない。現実にはすでに、国家資本に抗う運動は現われている。今後検討すべきことだが、DGの理論構成自体に行き詰まりの一因があるのかもしれない。ともあれ本書の特色は、DGのマクロ政治の強調にある。DGの議論を遵守しつつ整理した、DG政治哲学への有益な入門書である。
* 一方、モンテベロ氏は『ドゥルーズ 思考のパッション』において、ジル・ドゥルーズの哲学を七つの逆説(各々「内在」「一義性」「共立性」「自然」「器官なき身体」「美学」「即自的現われ」の逆説)を軸に描きだす。その目的は、私たちが捉われている諸々の「錯覚」とりわけ「人間」をめぐるそれからの離脱と、非有機的生命の解放にある。氏は広義の生気論的系譜に位置づけられうる哲学者を研究しており、本書でもドゥルーズを、この系譜の延長線上に位置づけようとしている。

七つの逆説について、さわりだけ提示してみたい。たとえば心と物、思弁と経験などを、私たちは対立的にとらえがちである。ドゥルーズは一枚の破れない平面を想定して、こうした対立は、一枚の平面が様々な仕方で折り畳まれたり織り合わされたりしたときに生じる折り目(襞)や隙間の効果と捉えた。この平面が「内在平面」と呼ばれる。しばしば内在に対立するとされる超越もまた、この折り/織りによる効果であり、その意味でこの平面に内在する。表面を進んでゆくと裏面に出ると言ってもいい。対立するものの連続性が内在の逆説である。この平面上の物体は、全て同じ意味で「存在」する。いわゆる「存在の一義性」である。これは諸物の差異を消すことではない。差異と存在は互いを支え合うからである。存在するほどいっそう差異が際立ち、差異が際立つほどさらに存在する。この誇張法的関係が一義性の逆説である。差異の際立ちにおける諸物の存在は、意味サンスという非物体的なものの生産に向かう。この生産は不毛ステリルである。ドゥルーズが例に挙げる、聖母マリアの〈無原罪の懐妊〉には、不妊ステリルの裏返しという面がある。男も懐妊しうることになる。この生産は、己の属性からの離脱と他の諸属性の横断における諸物の共立を指す。生産が不毛なものに支えられる。これが共立性の逆説である。意味の生産とは表現である。共立平面(内在平面を共立の相から見るとそう呼ばれる)においては、人間だけではなく、全ての物体が己を表現する。内容と表現を区分する、人間的表現における意味性シニフィアンスとは異なり、ここでは内容と表現は互いを折り/織り合い、支え合う(意味性と意味は異なる)。どの存在者もこの平面の内容であり(包含)、この平面を表現(展開)する。「自然」とも言いかえられる平面は、人間的意味(意味性)を示すことなく、ただ表現する。これが自然の逆説である。不毛な生産と意味性のない表現は、非有機的イノルガニックな生と器官オルガンなき身体を出現させる。非有機的な生命は、フロイトの言う「死の本能」と無縁ではない。但しフロイトがそれを生以前の未分化な物質的状態に向かう自我の死と捉えるのに対し、ドゥルーズはこれを物質も記憶も愛も性も欠いた空虚な時間の自我による経験と捉える。ここに非人間的かつ非有機的な生が開かれる。有機体と対立し、その拘束から解放される生。これが器官なき身体の逆説である。人間固有の表現の典型に思われる芸術もまた、器官なき身体の構成である。人間をめぐるあらゆる錯覚を一掃し、非有機的な生を現出させる。これが美学の逆説である。非人間的生の解放は、人間―主体が客体もしくは対象としての物体を知覚するという錯覚からの脱出でもある。知覚とは対象に主体が光を当てることではない。物体自身が光を放って現れる。これが即自的現われの逆説である。

本書はドゥルーズ哲学を非人間的・非有機的生気論の系譜に位置づける。人間を終わらせつつある資本主義に係わって、〈無原罪の懐妊〉をマルクスと繋げて論じたドゥルーズはいない。マルクスへの言及は註に一箇所、いわゆる『経哲草稿』の参照を促すのみである(三七九頁)。また非人間的生の解放を目的とするとはいえ、哲学の任務を錯覚からの覚醒と捉える本書には、ドゥルーズが批判した常識あるいは良識の残滓がある。錯覚といえば〈偽物の力〉や知覚不可能な〈秘密〉を語ったドゥルーズもいない。こうしたドゥルーズを含めたうえで、非有機的生を考え続けられるだろうか。評子の関心はそこにある。
この記事の中でご紹介した本
ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家 国家・戦争・資本主義/書肆心水
ドゥルーズ=ガタリにおける政治と国家 国家・戦争・資本主義
著 者:ギヨーム・シベルタン=ブラン
出版社:書肆心水
以下のオンライン書店でご購入できます
ドゥルーズ 思考のパッション/河出書房新社
ドゥルーズ 思考のパッション
著 者:ピエール・モンテベロ
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「ドゥルーズ 思考のパッション」出版社のホームページはこちら
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