対談=奥野克巳×高野秀行 「辺境」の知の運動はいま 『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年7月20日 / 新聞掲載日:2018年7月20日(第3248号)

対談=奥野克巳×高野秀行
「辺境」の知の運動はいま
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)刊行を機に

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文化人類学者の奥野克巳氏が『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)を上梓した。ボルネオ島の狩猟採集民プナンのフィールドで調査を始めて十数年、プナンの暮らしから奥野氏が導き出した言葉は、資本主義社会の中で身動きが取れなくなった私たちの呪縛を解く。あるいは人生の根底を揺さぶる。「これは真の意味でラディカルかつ危険な本だ」と、読後の衝撃をツイートしたノンフィクション作家の高野秀行氏に、奥野氏と対談いただいた。初顔合せにも関わらず、話の尽きぬ対談となった。 (編集部)
第1回
ニーチェを手がかりに、プナン社会から「近代」を見る

高野 秀行氏
高野 
 僕にとってこの本は衝撃でした。でも最初にタイトルを見たときは、ありがとうやごめんなさいを言わない人たちは、一昔前の中国やインドをはじめ、珍しくないと思ったんです。おそらく世界各地の民族で、もともとの言語にありがとうやごめんなさいをもっている方が少数です。村の共同体とは、そうした言葉を用いなくても、成り立つ世界なんですよね。本の知識や実際の体験から、最初はこの本に書かれた民族の習性には、そう目新しさはないと思った。

ところが読んでみると印象が違いました。まず独特だったのは、ニーチェの言葉と結びつけられていたこと。材料が新しいわけではないけれど、それに対する奥野さんの解釈ということです。ニーチェは近代を丸ごと否定した、ポストモダンのはしりのような人ですよね? そのニーチェの思想と、文明の初期段階にある狩猟採集民の思考が結びつくということに驚き、混乱したんです。
奥野 
 私もプナンでは、常識を何度も根底から覆されました。その衝撃をどう受け止めて、言葉にすればいいのか、考えあぐねていた。でもあるとき、「近代」というものを考え抜いたニーチェを手がかりにすれば、我々の近代社会と、アルカイックなエートスをとどめるプナンの社会が、合わせ鏡のように見えてくることに気づいたんです。
高野 
 例えばプナンの人々は学校嫌いで、子どもが学校に行きたがらないだけでなく、親も行かなくても気にしないと。それは分かる気がするんです。学校とは近代的な枠組みですから。でも若者が狩りをしたがらない現状についても、誰も気にしていない、と。
奥野 
 狩猟で生計を立てているにも関わらず、「たいしたことじゃない」とか、「イノシシが怖いのだろう」などと、どう捉えたらいいのか分からない答えが返ってくるんですよね。
高野 
 「状況主義」のプナンの人たちに未来はなく、毎日が、今日を生きる、その繰り返しだと。今しかないから、発展も向上も求めない。向上する必要がないから、反省もしない。

村で起こった盗みに対し、話し合いがもたれたときには、盗んだ人を問い詰めるのではなく、各自気をつけて盗まれないようにしよう、となった(笑)。
奥野 
 反省もないし、誰かの責任を追及しようともしないんです。ただその話し合いを考えると、個人的な反省はしないけれど、共同体としては、ある種の反省をしていると考えられなくもない。いずれにせよ、私にとっての発見は、反省しない人々がいるなら、反省も人間が作り出す文化の一つなのではないかと、人間性に対する前提が崩れたことでした。個々の事象を一民族の文化として片づけるのではなく、私自身が悶えながら考える中で、人類の根源に触れるような何かが見えてくる瞬間が、私にとって重要でした。
高野 
 それは人類学では、これまでなされていなかったことなのですか。
奥野 
 言いにくいのですが、そうなのです。文化人類学の祖であるマリノフスキー以降、フィールドワークをし、その土地で感じる違和を少しずつ理解し、調査データを一つの民族誌としてまとめることが、人類学者のなすべきことでした。しかし現代を代表する人類学者ティム・インゴルドは、人類学とはそういうものではないのだと言っています。人類学者が現地に入り、自らが何かを学びとることこそが重要なのだ、と改めて指摘したのです。
高野 
 それは最近のことですか。
奥野 
 本は近年刊行されたばかりです。彼にとって、世界とは向こう側に独立してあるものではなく、人類学者である自己と一体化して現われる。それが真の人類学なのだ、と言います。これまでの人類学では、自己の持つ主観は学問にはならないとされてきました。学問とされるためには、主観を除いた論文を書き、レフェリーがいる雑誌に投稿して、審査を通る必要がある。人類学者が主観的に感じた、人々の反省しない態度から倫理の発生の起源を探る、というような主題は、論文にならなかった。でも本当はそれこそが、人類学が既存の文化の外に飛び出すための、意味のあることではないかと思っています。
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この記事の中でご紹介した本
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと/亜紀書房
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと
著 者:奥野 克巳
出版社:亜紀書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」出版社のホームページはこちら
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