生物学と個人崇拝 ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集第3巻 書評|ジョレス・メドヴェージェフ(現代思潮新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月21日 / 新聞掲載日:2018年7月20日(第3248号)

読み応えのある科学史 
科学とは何かを考える上で、多くの示唆与える

生物学と個人崇拝 ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集第3巻
著 者:ジョレス・メドヴェージェフ
監修者:佐々木 洋
出版社:現代思潮新社
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「科学にも階級的な性格がある」という、今から見ると錯誤と分かる議論がソヴィエトの科学者T・D・ルイセンコの主張であり、それをスターリンやフルシチョフが強く支持したことで政治的な問題になった。その結果、多くの人の運命が狂わされ、犠牲者も多く、ソヴィエト科学の致命的ともいえる遅れをもたらした。その1920年代から始まり1960年代後半まで続いた科学史上、類を見ない論争を描いた本である。

著者は遺伝学を専門とし、日本では「ウラルの核惨事」や「チェルノブイリの遺産」が翻訳されている著名な科学者である。これらの著書とは異なり、本書の内容は著者自身、あるいは友人、知人、先輩の科学者が直接かかわっていることから、実に生々しい。

本書は3部で構成されている。第1部は1929年から41年までの出来事を歴史的に追っている。ルイセンコの台頭と、それに真っ向から論争を挑んだヴァヴィーロフを中心に描かれている。ルイセンコは科学の世界で全権を掌握した。著者は、ルイセンコの科学を一貫して疑似科学と呼んでいる。疑似だからこそ、権力と結びつき批判する科学者をどん底に叩き落してきた。そこにはスターリンという強力な応援者がいた。1937年春の共産党中央委員会でスターリンは、トロツキーやブハーリンなどの政敵と一緒にヴァヴィーロフなどを人民の敵として糾弾した。この時から、ルイセンコ論争は、科学上の論争から、政治的な論争へと性格を変えたと著者は指摘する。また、1939年に開催された全連邦農業科学アカデミー常任委員会の速記録が掲載されているが、そこにはヴァヴィーロフに対するヤジまで記録されて、当時のルイセンコ批判者に対する攻撃の様子を知ることができる。

第2部は第二次大戦後に起きた科学論争を、目撃者の立場で描いている。戦後、ルイセンコはさらに権力を強化していく。1948年8月に開かれた全連邦科学アカデミー総会において、自らの意にそぐわない最も優秀な生物学者数百人を降格させ、著者に言わせると「ソヴィエトの科学を決定的に遅らせる総会になった」のである。それとともに著者もまた、その論争の渦中に巻き込まれていくことになる。

スターリンがルイセンコ理論に注目したのは、ソヴィエトの農業集団化政策の失敗にあった。その危機を乗り越えようとした際に、社会主義の優位性を誇示できるルイセンコに注目したのは、ある意味、必然だったのかもしれない。

しかし、いつまでも疑似科学がまかり通るわけではない。1952年から始まる論争の中で、徐々にルイセンコ批判が強まり、破綻寸前までいった。そのルイセンコを強力にバックアップしたのが、スターリンに次いで権力を握ったフルシチョフだった。

そして第3部は、論争の最終段階とルイセンコの没落を描いているが、ここでは著者自身、論争にかかわった科学者の立場で述べている。著者は1963年に『ネヴァ』誌で「ソヴィエト遺伝学の将来」と題する論文を書き、それまで抑えられていたルイセンコ批判の発端を作り出した。さらには本書の最初の形となった『生物学と個人崇拝』の刊行の準備を始めるのである。フルシチョフの強い支持を得てルイセンコは生き延びたが、結局、フルシチョフの失脚が、そのままルイセンコの失脚につながっていった。

実に読み応えのある科学史であり、政治史であり、ドキュメントでもあり、さまざまな読み方ができる本である。科学とは何かを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。

今の話につなげて考えてみよう。ルイセンコは遺伝子の働きの重要性を否定したため、疑似科学だと著者は断定する。その点は確かに科学的ではないかもしれない。しかし、いまでも生物はどこまで遺伝子が決定し、どこまで環境が決定するのか、はっきり分かっているわけではない。ルイセンコのように環境がすべてを決定するという考え方の裏返しとして、遺伝子決定論を主張する科学者も現実に多く存在しているのである。

本書を読んでいると、独裁政権下のソヴィエトという異常な時代だけの問題とは思えなくなってくる。いまは多国籍企業が独裁政権のようにふるまっている。それら巨大企業は環境や安全を無視して研究や開発を推し進め、自分に都合がよいようにデータを偽造したり、意図的な曲解を行い、最後は政治力で推し通している。そこには科学的な正確性も信頼性乏しい。疑似科学は、けっして過去の話ではない。(名越陽子訳)
この記事の中でご紹介した本
生物学と個人崇拝 ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集第3巻/現代思潮新社
生物学と個人崇拝 ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集第3巻
著 者:ジョレス・メドヴェージェフ
監修者:佐々木 洋
出版社:現代思潮新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「生物学と個人崇拝 ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集第3巻」出版社のホームページはこちら
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