尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男 書評|太田 尚樹(吉川弘文館)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月23日 / 新聞掲載日:2016年4月15日(第3136号)

尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男 書評
この時代の特異性を浮き彫りにする濃密な評伝

尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男
著 者:太田 尚樹
出版社:吉川弘文館
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新進気鋭のジャーナリスト。中国問題に関する屈指の専門家。近衛文麿内閣の若手ブレーン。このようにきらびやかな経歴を持つエリートがなぜ、国際諜報組織コミンテルンの手先となったのか。そして、どのような背景と経緯によって日本の軍事機密を漏洩し、スパイとして処刑されたのか。本書は一九四〇年代初頭の日本を震撼させたゾルゲ事件に注目することで、この問いに肉薄していく。尾崎秀実という異形の人物像を通して、この時代の特異性を浮き彫りにする濃密な評伝である。

尾崎秀実の肖像は、本書によればいくつかの鋭い矛盾に貫かれている。例えば、尾崎は、関東大震災を機に思想弾圧を激化させた官憲の行動を目の当たりにし、日本の政治体制に強い不信感を抱いたという。ところが、その尾崎本人が、日本型ファシズムを確立した近衛内閣の嘱託として、多くの政策提言を行なうことになる。それらの政策は、軍閥の暴走を招いたばかりでなく、日本を破局へと導く総動員体制の推進にもつながった。

尾崎はまた、マルクス・レーニン主義の理論に心酔し、世界共産主義革命の理念を信奉していた。この信条に基づき、満鉄調査部の嘱託として、また若手エリートが集う政策研究会の一員として、ソ連と中国の共産党を擁護するための手の込んだ政治工作を続け、日本の中国侵略に対して批判的な論陣も張っていた。その一方で、中国共産党が、同じ中国の民衆を率いた蒋介石の国民政府と戦闘を交えることには目をつぶった。近衛内閣に蒋介石との決別を促し、汪兆銘を担いだ南京政府の樹立を仕掛けたのも、尾崎その人だったという。尾崎の中では、「中国と戦うべからず」と「共産党勝利のための中国人の犠牲はやむをえず」が混在していたのである。後に顕在化するソ連の経歴(対日参戦、大粛清、国家解体)を踏まえても、必死にソ連防衛工作に邁進した尾崎の振る舞いには、ほとんど滑稽なまでの痛々しさが付きまとう。

尾崎はさらに、「ソ連・中国と戦うべからず」を軸として、「北進」ではなく「南進」、すなわち仏印進駐を提言した。このような政策は、日本が米英との軍事衝突に至るリスクを高めるものだったが、中国の専門家ではあっても、アメリカの国力に関する知識が致命的に不足していた尾崎には、米英との軍事衝突がもたらす重篤な結果についての真剣な考察が欠けていた。また、植民地台湾で暮らした青年時代に、尾崎が被支配者としての台湾人の苦境に心を痛めていた事実や、朝日新聞記者として上海支社に勤務していた時期(一九二八―三二年)に、日本をはじめとする帝国主義列強の理不尽な支配構造を目撃していた事実を考えれば、その尾崎自身が日本の植民地拡大につながる仏印進駐を提言したことには、ぬぐいがたい矛盾があると言わざるをえない。本書が示唆するゾルゲの冷徹な現実認識と比べるとき、尾崎秀実の肖像は、様々な不可解な側面を宿している。

とはいえ、本書を読み通すことで、こうした一人物の不可解さが、当時の政治状況の突出した複雑さに由来することが次第に見えてくる。無計画な国家シナリオに依拠した軍閥の独断専行。世界共産主義革命を標榜するコミンテルンの脅威。傀儡国家満州と国境を接する赤軍の脅威。ひたすら泥沼化する日中戦争。いくつかの試みの失敗によって暗礁に乗りあげた日米外交。本書は、このような国際環境の中で怪物性を露わにする政治の中枢において、一人のナイーヴなエリートがどのように矛盾に満ちた生き様を強いられたのかを追跡するのである。ゾルゲ関連資料の半分が未公開である事実や、拷問に依拠した特高の調書づくりの特性などを踏まえた上で、本音と建前を使い分ける尾崎の思想的葛藤に分け入る本書の鋭い分析は、繊細でしかもスリリングである。おそらく今後のゾルゲ事件研究にとって欠かすことのできない基本文献となるだろう。
この記事の中でご紹介した本
尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男/吉川弘文館
尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男
著 者:太田 尚樹
出版社:吉川弘文館
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「尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男」出版社のホームページはこちら
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