拳の先 書評|角田 光代(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月25日 / 新聞掲載日:2016年4月15日(第3136号)

拳の先 書評
物語に組み込まれる人たちを傍観しつづけた先に

拳の先
著 者:角田 光代
出版社:文藝春秋
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拳の先(角田 光代)文藝春秋
拳の先
角田 光代
文藝春秋
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スポーツは筋書きのないドラマ、というけれど、それは見る側の期待から勝手にふくらませただけなのではないか。実際の競技者たちの中にあるのは、もっとシンプルなものなのではないか。
『拳の先』は、かつて『空の拳』で、ボクシング雑誌に配属されジムに通ううちにその競技の魅力に取りつかれる編集者・那波田空也が再び登場する。現在は文芸誌に配属され、そこそこ実績もあげ、ボクシングとは疎遠になっていた空也は、一癖ある作家・久須田蒼介がボクシングに興味を示したことをきっかけに、空也は再びボクシングの面白さに魅せられるが、何度勧められても自分が練習に加わることはない。ただ、ひたすら立花を、そしてジムのメンバーたちを「見る」ことに徹底している。そこにはある明確な変化が見て取れる。

作家である蒼介は、初めて見るボクシングの迫力に興奮しつつ、ボクサー個人をめぐる演出としての「物語」を実に冷静に分析した。別にスポーツに限らず、我々は常に物語を求め、そこに意味を見出したがるものだ、と。蒼介という人物に空也は必ずしも好印象を抱いていない。むしろ酒に酔っての暴言や先輩編集者の煙たがるような態度から不信の目で見ている。しかし、何でも小器用に書けるこの作家の物語というものへのドライな哲学が覗く。

ボクシングはシンプルな競技だ。勝つか、負けるか。武器は体一つで、ただ拳を相手に打ち込み、打たれないよう防御する。パンツとグローブしか身につけていない試合中のボクサーの姿の描写はその魅力を端的に物語っている。だが、シンプルな分、練習も単調だ。ただ繰り返し毎日同じことをやる(この単調さが、シンプルさの魅力と同じくらい巧みに入念に小説内に配されていることに注目したい)。そのシンプルさ、単調さに意味を見出すために物語が必要とされる。

タイガー立花は、物語に飲み込まれてしまったボクサーだ。生い立ちの嘘やゾンビのコスプレは、彼を目立たせるにはいい道具であったかもしれないが、そこから抜け出せなくなって醜態をさらす羽目になる。そこから立花は、徹底した無意味を求めて、タイに武者修行に出掛け、言葉もわからないまま、何のためかわからないきつい練習に打ち込むのだ(タイの選手との試合シーンは、日本的な物語に巻き込まれていないブラックボックス感は何とも言えない迫力がある。彼らのドラマが見えない分、ただ勝つために動いているのが伝わってくる)。天才的な新人選手・岸本修斗もまた伝説的な物語を与えられ、メディアは沸き立つ。その一方で自らの限界を悟り、ひっそりと引退を考えるジムのメンバーをも空也はただ見つめている。

もうひとつ、空也が傍観者として位置づけられているのが、ジムに通う小学生のノンちゃんをめぐる物語だ。明らかにノンちゃんの置かれている状況の異常さはわかるのに、本人がやんわり拒絶する分、敢えてそこに入り込めないまま、ノンちゃんの夢であり憧れてある立花を一緒に見つめることしかできない。

空也は自らの記録したものを文章にすることすら蒼介に投げて放棄しようとする。文芸誌編集者の彼が物語を徹底して拒絶するというのは何だか皮肉だ。物語に飲み込まれない真実とは何か。拳の先に何が見えたか。「終わらせること」によって見えてくるシンプルな結論が胸に突き刺さってくる。
この記事の中でご紹介した本
拳の先/文藝春秋
拳の先
著 者:角田 光代
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
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