正義の境界 書評|オノラ・オニール(みすず書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月25日 / 新聞掲載日:2016年4月22日(第3137号)

カントを導きの糸にして 
正義をめぐる哲学的/政治的な境界を越える

正義の境界
著 者:オノラ・オニール
出版社:みすず書房
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カントを導きの糸にしつつ、正義をめぐる「哲学的な境界」と「政治的な境界」を越境しようとする重要な著作である。

哲学的な境界を越えるとは、理性や行為や自由についての経験論的な構想の限界を超えて、カント的な構想の説得力を示すことである。具体的には、功利主義の正義論や、経験的な経済学と政治学が、たとえば自律の理解や、判断力の位置づけに関して、カント的な実践哲学によって補われるべきことが主張される。さらに、権利を中心とした正義論の限界が指摘され、カント的な責務を中心とした観点に立つ正義の構想が示される。

政治的な境界を越えるとは、端的に国境を超えることである。カント的な、普遍的な責務に基づくコスモポリタニズムの観点から、国境を境界線とする正義論の諸類型、たとえばコミュニタリアニズムが批判される。それらに代えて提示されるのは、トランスナショナルな経済的正義とジェンダー正義の構想であり、トランスナショナルな正義のためのネットワーク的制度である。さらには「遠くの見知らぬ人」への責務の存在が主張される。

カント的な正義論が功利主義やコミュニタリアニズムに批判的なのは驚くべきことではない。著者の議論に特徴的なのは、現代のカント主義を代表すると解されることの多いロールズの正義論にも重大な反論を提起することである。それは、「理想化」と「抽象化」の著者による区別に関わる。

抽象化とは、一定の述語だけに注目して他を括弧に入れることである。たとえばある行為を詐欺や欺瞞として記述するとき、それ以外の述語は括弧に入れられる。抽象化は、行為の記述を伴う、あらゆる原理において避けることができない。他方、理想化とは、一定の述語を否定するか、現実に存在しない述語を想定することである。理想化とは理論に誤った前提を持ち込むことであり、避けられなければならない。

著者によればロールズの正義論は問題のある理想化を含んでいる。たとえば、原初状態の行為者(当事者)の合理性の想定や、正義の主題を「閉ざされた社会」に限定し、家族内部の正義とトランスナショナルな正義を無視することなどが、その例である。現代のリベラルな正義論に広く共有されている、こうした「抽象化のふりをした理想化から生まれるのは、表面的には広く適用できるように見えながらも、ある理想に合わない人びと、もしくはその理想に他の人びとほどには合わない人びとをこっそりと排除する理論である」。

理想化と抽象化はしばしば混同される。ロールズのそれを含めたカント主義の立場一般に対する、内容空疎で抽象的な理想主義だとする批判はその典型である。しかしながら著者によればこの批判は的を外している。どんな理論も抽象化を避けることはできない以上、抽象性を問題にしても意味はない。問題なのは理想化である。

重要なことに、人間理性の権威の擁護と定言命法の導出に際してカントが行ったのは、抽象化であって理想化ではなかった。カントは人間の理性的能力、分離独立性、自足といった要素を(ロールズのように)誇張してはいない。むしろカント的な抽象化に基づくならば、行為者の特殊性(たとえば能力やジェンダーの差異)を捨象したうえで、有限な能力をもちながら相互行為する複数の行為者たちが同意しうる制度を探究するための原理を導くことができるのである。

「カントに回帰する」ことで現代カント主義の限界を超えられるとする著者の主張はカント哲学と現代政治理論の研究者にとって大きな刺激となるだろう。カントとフェミニズムの意外な接点が指摘されていることも注目に値する。ただし、叙述はまさにカント的に抽象的かつ濃密で、集中力を要求する。カントと政治理論についての予備知識も必須である。大学院生以上の読者に強く薦めたい。(神島裕子訳)(
この記事の中でご紹介した本
正義の境界/みすず書房
正義の境界
著 者:オノラ・オニール
出版社:みすず書房
以下のオンライン書店でご購入できます
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