ウィリアム・フォークナーと老いの表象 書評|金澤 哲(松籟社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 読書人紙面掲載 書評
  4. 学問・人文
  5. 評論・文学研究
  6. 作家研究
  7. ウィリアム・フォークナーと老いの表象の書評
読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月29日 / 新聞掲載日:2016年5月6日(第3138号)

ウィリアム・フォークナーと老いの表象 書評
9人の論者が「老い」に注目して提示するフォークナー像

ウィリアム・フォークナーと老いの表象
著 者:金澤 哲
出版社:松籟社
このエントリーをはてなブックマークに追加
アメリカ文学はしばしば「若者の文学」と呼ばれる。アメリカが本格的に文学を産出し始めた19世紀中葉はヨーロッパでは「小説の時代」の盛期だったが、近代小説に相応しい成熟した社会/文化を欠いた若い国の作家達は、自国の未熟な「若さ」を「老いた」ヨーロッパと差異化する特色として措定した。これはもちろん文化的劣等感の裏返しだったのだが、結果的にアメリカ小説をいわば「メタ近代小説」的なものにしていく――そこでは社会/文化は自然に存在するものではなく、無垢な主人公が衝突・逃亡するという形で「対象化」されるものとなったのである。

フォークナーがアメリカを代表する文人となった理由の一つは、まさにこうした伝統――「若さ」の持つ批評性――を引き受けて出発したからであるはずだが、長年フォークナー研究に従事してきた9人の論者が「老い」に注目して提示する本書のフォークナー像は、彼が近代文学そのものの可能性を突きつめ、その先へ進もうとしたことを示唆するものとなっている。実際、第一次大戦後に若者礼賛の社会/文化が定着し、第二次大戦後には圧倒的な超大国となったアメリカでは、「若さ」が凡庸な風俗に、そして安易な自己肯定に堕していったともいえるのであり、ならばアメリカ小説の起源において排除された「老い」に20世紀小説の批評性を見ることも、そして近代文学の限界を超える地平を探ることもできそうに思える。その水準において、本書はアメリカの一作家のみならず「小説」に関心のあるすべての読者に開かれているのだ。

「老い」とは(「若さ」と同様)相対的で文化的な概念である。「老人」を社会から退場させるのも(20世紀的な)文化であり、だから人は「老い」を嫌がるのだが、初期フォークナーはその「老い」を戦略的に活用し、現代社会を外側から批判する視座を獲得した。これはともすれば懐古主義・逃避主義につながりかねない姿勢だが、彼が南部作家であったことは、そうした批評性を体現する「老人」達自身の問題――奴隷制と人種差別――に彼を直面させることになった。かくして当初は「装置」だった「老い」が中期作品では重い主題を呼び寄せ、それにともなってフォークナーの「老人」達もリアルな「人間」として描かれていく。フォークナーの「社会」は「若者」と「老人」をともに取りこむことになったのである。

だが、そのような「社会」は、第二次大戦後になると保ちがたくなる。アメリカという国家が「成熟」し、国内におけるイデオロギー的な対立が弱まっていくためだ。後期フォークナーが応接しなくてはならなかったのは、そうしたポストモダン的な状況だった。近代小説とは社会/文化の内部に対立や緊張を見る(作る)ことで成立してきた制度であり、中期までの作品における「老い」もそうした対立を導入するものとして機能していたのだが、彼はここで老いた社会に老いた人間として対峙しなくてはならなくなったのだ。だとすれば、本書がこれまで軽視されてきた後期作品に多くの頁を割き、とりわけ多彩な議論を展開していることの意義も自ずと了解されるだろう。

我々はまだ近代文学の呪縛から逃れられてはいない。我々はまだいつまでも「若者」でいたいと思っているのだ。だが、フォークナーを読み――そして本書を読み――「老い」について考えることは、彼に続いて近代文学の臨界点を踏み越え、未来に向けて試行錯誤を繰り返すことを要求してくるのである。
この記事の中でご紹介した本
ウィリアム・フォークナーと老いの表象/松籟社
ウィリアム・フォークナーと老いの表象
著 者:金澤 哲
出版社:松籟社
以下のオンライン書店でご購入できます
「ウィリアム・フォークナーと老いの表象」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
諏訪部 浩一 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 作家研究関連記事
作家研究の関連記事をもっと見る >