映画と文学 交響する想像力 書評|中村 三春(森話社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月29日 / 新聞掲載日:2016年5月6日(第3138号)

「多種多様な研究関心」のシンフォニー

映画と文学 交響する想像力
著 者:中村 三春
出版社:森話社
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文字だけで作り上げられた小説などの文学作品と、映像と音で構成される映画とでは、イメージの受容に際し、受容者の想像力の関与の仕方が全くといってよいほど相違している。文学の場合は、文字という記号から映像をまず立ち上げるために、想像力が全的に用いられるのに対し、映画の場合は、映像がまず否応なく与えられ、その映像をとおして、読者の想像力が活性化されるという形を採るからである。

映画と文学との相関を扱う研究は、このことに代表されるような文学と映画の特質の相違の問題へとまず向かうであろう。本書を手にする読者も、小説を「原作」とし、映画における変奏の問題を扱う論などを期待するかもしれない。しかし、本書の指向はこの方向に限定されない。むしろそのような安易な比較から脱却することを、本書は目的としている。その点が本書を実に豊饒なものにしている。

本書の中では、パリで行われた川端康成の文学をめぐるワークショップを基とした第Ⅲ部の論考が、いわば正攻法の比較研究と見える。しかしながら、その中でも、中村三春が書くように、議論は原作小説の「忠実な」映画化とは異なる方向に開かれている。中村は、映画においても換喩の手法は可能であろうが、例えば「駒子の唇は美しい蛭の輪のやうに滑らかであつた。」という表現の再現のために、蛭を大写しに登場させることの現実的難しさを指摘している。

第Ⅰ部に収められた論考は、特に映画と文学との対比という枠組から自由である。佐藤泉の「カリガリからドグラ・マグラへ」は、これらの作品を通じて、「戦争とファシズムの時代の複雑に分裂した主体のテーマ」、すなわち「操られ、意のままにされる主体、そして彼を意のままにする権威というテーマ」を見て取り、これらを、映画と小説のそれぞれのメディアの鑑賞形態にまで敷衍して論じている。また、中川成美は、「文学と映画が分かたれた表現媒体として自立しながらも、相互が侵食しあうことで可能となる芸術的効果についての実験的な意欲」を一九二〇年代のメディアの状況に見て取っている。川崎公平は、「眼前の世界(イメージ)への不信とそのクリシェ化」について論じ、普段気づかない日常生活の裏に潜む真の「現実」を垣間見させるものとして、「スリラー」というジャンルを扱っている。それぞれ実に刺戟的な論考である。

第Ⅱ部はメディアミックスの問題を取り扱うが、友田義行は、勅使河原宏の映画『サマー・ソルジャー』に、エンドロールには示されない安部公房の影響を見出す。横濱雄二は、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンと関連づけながら、横溝正史の作品に、かつての日本の再発見ではない虚構の農村像の創出を見て取っている。これらも貴重な指摘である。

ところで、「あとがき」に書かれるとおり、本書は、科学研究費補助金の共同研究を基としたものとのことである。これは余計なことであろうが、このような共同研究の成果は、公的資金によるものの常として、概ね、多くの制約のために、あまり「面白く」ないものとなりがちである。しかし本書は、見事にこのイメージを打ち破っている。強いて云うなら、共同研究の痕跡は、注記まで付いた全くコラムらしくないコラムの「真面目さ」に見出せるかもしれない。もちろん、これらコラムもまた魅力的ではあるのだが。
この記事の中でご紹介した本
映画と文学 交響する想像力/森話社
映画と文学 交響する想像力
著 者:中村 三春
出版社:森話社
以下のオンライン書店でご購入できます
「映画と文学 交響する想像力」出版社のホームページはこちら
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