時ならぬマルクス 批判的冒険の偉大さと逆境(十九―二十世紀) 書評|ダニエル・ベンサイド(未来社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年7月30日 / 新聞掲載日:2016年5月13日(第3139号)

時ならぬマルクス 批判的冒険の偉大さと逆境(十九―二十世紀) 書評
“僕はここで踏ん張るよ” 
確固たるマルクス主義者が「時代」に応接した理論の書

時ならぬマルクス 批判的冒険の偉大さと逆境(十九―二十世紀)
著 者:ダニエル・ベンサイド
翻訳者:佐々木 力
出版社:未来社
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二〇一〇年一月一二日、ベンサイドは逝った。享年六三だった。その数ヶ月前、長年の同志だったクリス・ハーマンも他界している。

ベンサイドは新左翼と六八年世代との交点だったが、『リーニュ』の追悼号への寄稿者を見れば分かるように、多くの人びとがその早すぎる死を悼んだ。そこにはミシェル・レヴィなどの党的同志たちだけでなく、バディウやバリバールの名も見える。デリダが生きていれば、彼も名を連ねたに違いない。

『時代の不調和』(一九九五年)やデリダ『マルクスの亡霊たち』を受けて書かれた実質的には最後の単著『亡霊の頬笑み』(二〇〇〇年)と列んで、ニーチェの反時代unzeitigを響かせる本書『時ならぬマルクス Marxl’intempestif』は、メシア的哨兵―見張りという副題をもつ作品『ベンヤミン』(一九九〇年)における歴史観を一貫して響かせる、七〇年代後半以降におけるマルクス主義の後退局面のなかでこの国ではあまり論じられることがなかった著作のなかでも決して逸することのできない、作品であり、それはまた不本意にも定冠詞laを科―課された「物質―素材」の「懊悩」と題された最終章におけるいわゆる〈エコ・コミュニスム〉の主張に到る、さまざまな意味で確固たるマルクス主義者が「時代」に応接した、理論の書である。

本書に集約されたその「物質―素材」の有り様をめぐるマルクス『ゴータ綱領批判』における自然概念と〈人間―労働〉論にも密接に関わる彼の理路的変遷は、彼よりも四つ若い、同一の潮流のなかで流れを異にしたカリニコスが二〇一四年にようやく刊行した、実質的には彼の学位論文『資本(論)解読』と、晩年におけるその選択―訣別にも関わって、その時代的評価が並べて行われるべき作品である。

それは、ベンサイドにおける「歴史」諒解に由来する「理論」的柔軟さ(勇気)とカリニコスにおける「歴史」の「理論」的把握――生産様式論――への確固たる信念(忠)との対照、僕たちも立ち会わねばならないこの対照が、しかし再生批判的な政治経済学批判の位置づけを巡って、起源的には同一の潮流にありながらも「現状」への対処に違いをもたらした大きな違いとなっており、またそれは来たるべき主体の構想における根拠の違いにもなっているからである。

目次からもすぐに知れるが、そうした営為を歴史的理性批判・社会学的理性批判・科学の実証性批判の三批判として遂行するという目論見から成る本書を逐一腑分けすることは、書評には不可能である。その意味で書評というよりも、遅きに失した弔 文たらんとするこの文章を書く六三才の僕は、本書の表題、英訳が〈forourtimes〉とし、邦訳が考え抜いて〈時ならぬ〉とした〈l’intempestif〉の意味を以下の一点において読者に伝えたい。

組織化や左派的書物の編集に専念し、滅多に文章を公表することのない活動家セバスチャン・ブジェンは、『国際社会主義』に寄稿し、『コントレタン』に転載された弔文「赤い軽騎兵」――彼が「哨兵」を自称していたのだから――で、以下の挿話を知らせてくれた。僕が書評に事寄せて知らせたいのはそれである。


“僕はここで踏ん張るよ
I’mhanginginthere/Jem’accroche”

彼は死の数日前にそう言った。そして実際彼はそうした。最後の鐘が鳴るまで立ち続けることを決意したボクサーのように。



そして感傷的にも僕は訊ねる。訳すに当たって“僕は踏ん張るよ”とするのが普通であろうが、ここでは敢えて「ここで」を入れたこの「ここ」とは、いったいどこだろう、と。それは、その著『緩慢なる焦燥』(二〇〇四年)で自嘲気味に「ボンサイ・コミンテルン」と呼んでいた場(LCR)が象徴するマンデルもいた八〇年代の「ここ」でもなければ、彼が晩年にその期待を繋いだ「反資本主義新党NPA」でもない。

この「ここ」は、英語の〈場を指示する副詞there〉とフランス語の〈再帰代名詞se〉がともに妥当する、信念(ayant lieu=sujet)にほかならない。つまり“僕はここで踏ん張るよ”は“僕は自分を恃みにするよ”に等しいのである。そしてそれは、マルクス主義への、バディウ的な意味合いにおける、忠と勇気を促す場としての出来事にほかならない。

またこの〈忠―勇気〉は、普遍的でもなければ特殊―個別的でもない特異な最後の出来事であるみずからの死においても貫かれている。彼がみずからの死(因SIDA)を語ることなく逝ったのは、ある団体がその紋切り型を以て批難したような〈沈黙=死Silence=mort〉ではない。そこにはマルクス主義者の死生観があるだけなのである。(小原耕一・渡部實訳)
この記事の中でご紹介した本
時ならぬマルクス 批判的冒険の偉大さと逆境(十九―二十世紀)/未来社
時ならぬマルクス 批判的冒険の偉大さと逆境(十九―二十世紀)
著 者:ダニエル・ベンサイド
翻訳者:佐々木 力
出版社:未来社
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