骨なしオデュッセイア 書評|野村 喜和夫(幻戯書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年7月28日 / 新聞掲載日:2018年7月27日(第3249号)

骨なしオデュッセイア 書評
我慢しない逸脱 
「骨折」には向かわないしぶとさ

骨なしオデュッセイア
著 者:野村 喜和夫
出版社:幻戯書房
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流れるイメージを書き留めていくことは、詩人は慣れている。それを構成していくと短編小説になると簡単にはいえないが、うっすらと物語の骨格ができてくる。

しかし「流れるまま」を肯定すると、「我慢しないこと」を肯定することになる。「骨なし」はこのことと少しかかわっていると意識されている。悦楽につながる書き方をどう評価するかということだ。
《背骨とは堆積した時間の秩序だ、それがなければ人はどこにだって飛んで行けるぞ、》と成り行きの映像を流せる理由が語られる。

文章の接合を、走り書きの読点で止めておいた副詞で、別の内容にしてしまう書き方を「我慢しないで」している。これはカフカの小説の集中して流れる議論の不条理な変換よりもさらに我慢しない逸脱だ。際どい鋭角の決定的な映像変換が詩作品に求められるのと違い、メモ帳の言葉による映像の小箱をざらざらかき回したりする逡巡する時間は小説には許されている。

草稿や別稿がインターネットのサイトに発表されていることも最近ではよくあることだと思う。《血の色をしたゼリー寄せのやうな/薄明の町を私は/さまよひ歩いてゐた/友人が出る芝居に招待されたのだが/劇場の場所がわからない》というくだりが旧仮名遣いなので、引用かなと思い検索してみたら著者の詩につき当たった。自分が作りあげた場面を混ぜて、新たに接合している。よく混ぜることは散文に馴染む。
《そういう意味では、私にはまさに骨がなかった、気骨がなかった、反骨もなかった、比喩的な意味での骨がなかった、女のところに背骨を置いてきてしまったらしい私のこの無脊椎的夢遊も、つまるところ、骨のない私の生きざまへの寓意にすぎない?》と書かれるような説明はコロコロ変わっていいのだ、我慢しない映像変換のように。
「女」「無脊椎」「父」「解雇」「ヘルマフロディット」と主立った物語のキーワードは挙げられる。これらのイメージが夢の中に浮遊するように、流れの中に現れるのが見える具合だ。

しかし、逸脱している手法に見えて、さらに「骨折」するように変なところに行かないしぶとさは、生活者のにおいがする部分だ。

この本では、朝起きてから眠るまでの時刻に映像を分けている。一日の時間的推移を記すかたちをとることは「几帳面な体裁」の仮象ではあるが、読者は一日の移ろいの指標として読む。

初出タイトルは「骨栽培」だったと巻末にある。
《するとその私のコメントを否定するように、女は画像を添付してきた、ベッドのうえに、掛け布団を取り払った白いシーツのうえに、たしかに骨らしきものが写っている、》

夜には《彼がベッドから起き上がり、夢遊へと去ったとき、幽体離脱みたいに、背骨だけベッドに残って、鉢植えのサボテンみたいに根を張っちゃって、》というふうに成長していた。

一日の時間軸を書くことの区切り目として置き、図らずも背骨が植物のように育つ映像を外からメールで知らされることは、何が相殺してしまうのかわからない、あるいは後はなるようになる、という余韻になっている。
この記事の中でご紹介した本
骨なしオデュッセイア/幻戯書房
骨なしオデュッセイア
著 者:野村 喜和夫
出版社:幻戯書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「骨なしオデュッセイア」出版社のホームページはこちら
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