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読写 一枚の写真から
更新日:2016年10月21日 / 新聞掲載日:2016年10月21日(第3161号)

一石橋開通式 魚河岸獅子行列

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八月五日。東京の一石橋の開通式である。此の日選ばれて光栄の渡初をなしたのは中将湯で有名な津村順天堂一家の三夫婦で、此の渡初が終ると、水神祭で練り歩いて居る魚河岸の兄貴連の大獅子頭行列が続いて橋を渡った。写真は即ちその行列。(『写真通信』大正11年9月号)

豊洲市場の移転問題が噴出している。責任者も経緯も不明というお粗末な東京都の「闇」がさらけだされて、都民ばかりか日本中が唖然としている。

移転を受け入れていた築地市場の仲卸たちは、このさきどれほどの「被害」を被るのか、混乱はおさまらない。

この写真は、大正十一(一九二二)年夏にくりひろげられた「魚河岸夏祭の獅子舞行列」。『写真通信』大正十一年九月号に掲載されたものである。

大正十一年八月五日、日本橋西河岸に在る「一石橋」の開通式が行われた。

江戸時代からの木造橋を鉄筋コンクリート造りに変えたのだ。前年十月からの工事で長さ二十四間・幅十五間(一間は約一・八メートル)、工費は四十二万三千円とある。大正十五年の内閣統計局調査では、年収七百二十円から千二百円の世帯が半数となっているので、目安としていただきたい。

一石橋は「八つ見橋」の別称があった。外堀や日本橋川や道三堀が近接しているため、橋の上から常磐橋・呉服橋・鍛冶橋・日本橋・江戸橋・銭瓶橋・道三橋、そして一石橋を合わせて八つの橋を見渡せた江戸百景の一つだった。現在は外濠の一部と、道三堀が埋め立てられたうえに首都高速都心環状線の橋脚にさえぎられて、わずかに常磐橋と後に造られた西河岸橋が見えるだけになっている。

さて、開通式の渡り初めは「津村順天堂」の三夫婦、その後から水神祭で練り歩く魚河岸の「大獅子頭行列」が続いた。この写真は、祭行列の魚河岸連中だ。

このころ、魚河岸は江戸時代そのままに日本橋にあった。現在、日本橋のたもとに「碑」が立って歴史を伝えている。

第一次大戦も終わって平和な日が続くかと思われた、この写真の翌大正十二年九月一日、関東大震災が襲って魚河岸は壊滅する。芝浦に仮設市場が出来たが、東京市は年末に海軍省敷地の一部を借り上げて移転。さらに昭和十(一九三五)年に東京都中央卸売市場を開設した。

さらに災難が魚河岸を襲った。戦争である。

戦時下の統制経済によって、日本の流通機構はほとんど機能を失い、魚河岸も「魚のない市場」と化した。

そして、昭和二十年に入って東京は米軍の激しい空爆に襲われる。築地は、被害を受けたものの壊滅状態にならずにすんで、場外市場も含めて戦後の復興を果たす。

そして、老朽化したからと、豊洲への移転が決まったが、知らないうちに土壌汚染対策の盛り土の代わりに地下空間ができているという説明不能の状態が、小池百合子新都知事によって明らかにされた。問題の根は深い。

一世紀近く前に、頑丈な橋が出来たと笑顔いっぱいで祭行列を練り歩く魚河岸の人々。誰が、間もなくやってくる苦難の波を想像したことだろうか。

江戸時代には「一日に千両」が動く「江戸っ子の台所」を担っていた彼らが、安全で美味しい食材を届ける安心と誇りを取り戻すために、都庁役人たちの無責任体質を橋の上に曝したいものである。

「暮らしを守る心」をあなどってはならないことを、一枚の写真から読み取りたい。
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